’日本人の議論と学校教育
’’まずい議論
まず、『結論が決まっている議論』というのは、まずだろうなー。ところが、日本だとこれがあたりまえのようにおこなわれてる。まず、国語でおこなわれる。道徳の授業でおこなわれる。朝の会・帰りの会でおこなわれる。こういった、場合は、さいしょっから結論がきまっているのであって、けっきょくは、誘導されるだろう。それは、『自由な』・討論ではないのである。なんで、『こくご』などという教科をつくって、強制的にそれを訓練しなければならないのか。
こんなのは、すすんでバカになるようなものである。だって、そういった訓練をかさねているのだから・・。そういったところでは、最終的には先生や教科書ガイドの意見が正しいようになっている。だから、こういった場合には、絶対に『自由な』討論などできないのだ。やる必要がないではないか。ところが、それにかこつけて、『みんなで考えましょう』などとぬかす。まったくこういった欺まんよりこまるものはないのである。
つぎに、『バラ色で一般的総括的な議論』である。これはバラ色で一般的総括的にならざるをえない。どうしても、バラ色で一般的総括的になってまう。『ああしたらいい。こうしたらいい。こうしなければならない。』と。 ところが、そうやって、ああしたらいいとおもっているぶんには、絶対に実行できないものなのだ。複雑な要因がからみあって、そのような・・・状態になっているのだから、それを、外からなにもしらずに、『ああしたらいい。こうしたらいい。そうするべきだ。』といっても、なんの役にもたたないのだ。どうしょうもないではないか。ところが、そういったところでは、そのような発言が、奨励される。じっさい、それよりほかに言いようがないからだ。このようなアホみたいな意見をいうことを、日本人は、社会科を通して勉強する。
世界史の先生などは、『すこしでも、現実の社会状況に興味をもってもらうために』などどぬかすが、日本の授業のばあい、こうこうレベルでは(いな、大学レベルまで)、『興味』をもってはいけないのである。なるべく、うすっぺらな、アホらしい意見をいわなれけばならない。それが、バラ色で一般的総括的な議論であって、これは、ことのこどく、奨励される。じっさいに、日本人は、『現実の問題にもっと興味をもたなきゃならない』といって、これをやるのである。これは、新聞から、実際的な社会科の授業から、なにからなにまでいえることである。こういったバカらしい議論の能力を日本人はすすんでみにつけている。
第三には、調整のための議論である。別名、『談合』ともいう。これは、日本国ないでひろく行なわれる。大抵、日本で『議論』といった場合には、この議論のことをいっているのだ。それは、議論して、真理に到達するような議論ではない。ただたんに、利害の調整をおこなうだけである。『いちよう、おまえの意見も聞いてやった』という体制をつくるためにおこなっているにすぎない。それも、真剣に、それについて間が手いるわけでもなく、ただ、つごうじょう、そうしたほうが、議論やそのあとのことが、円滑に進むからやっているだけのことなのである。『円滑に進む』というのは、さきにみてきたように、アホらしい結論とはいえない結論をふりまわすやつが、その場でうまいようにデカイ顔をするということなのである。そして、それで、おしまいということなのである。だから、これらは、実際にはどうしたらよいのか、という真理への探究心がない。これらの談合に対する訓練を日本人はすすんでやっている。朝の会・帰りの会、班の会議、クラス会議、委員会の会議といった、『学校』の話し合いのすべての時間が、そういったものだし、道徳の時間のように、授業の中にもりこまれて意図的につくられる場合もある。 以上のみっつに共通することは、『個人の立場が反映されない』ということである。『個人の立場が反映された時には』- それは、『ひとつの意見』ということで、ハイおしまい、ということになってしまう。出しあうまではやるが、そのあと、つめることはしない。つめるというのは、調整をするということではなくて、真理の追及を、出しあったにもかかわらず進めることである。したがって、だすはだしたが、だしったきり、・・ あとは、利害の調整で ・・ という態度とは、まったくちがったものなのである。(日本人の場合つめるというと、利害の調整しかしない。『おまえの意見はわかったから、ここは、まあまあ・・』ということだ。それが完全にわるいとはいわない。そういったことが必要なこともあるだろう。(じっさいには、そっちのほうがどうも多いいようにおもえる。)しかし、本当になにをするべきかということを考えるのだったら、もうちっと、つめたほうがいい。そりゃ、掃除当番を決めるとか、なにか、こうすると利益があがるということにたいして、誰がなにをやるかを決めることは、日常の生活の中でたいせつなことだろう。しかし、それと、『議論』とは、べつ、なのである。あきらかにちがう。そこで、こういった調整の議論ではなく、真理のための議論をできるようにしなければならない。
真理のための議論をするには、ちっと、たいへんだ。
しかし、それができるような環境をつくっていかなければならない。ところが、いまの学校には、それができる環境というのは、まったく、ない。これをどうにかしなければならない。どうすればいいのか、ということについては、俺なりに、試案がある。しかし、ここでは、かかない。てみじかにいえば、学問ができる体制をつくるということなのだが、これを説明するのは、ちっと、たいへんだから。これは、ほかのところにまわす。
おりゃ、たまらんな、 たまらん、 たまらん つらい。 ところで、きのうとおとといと、ふつかかん、なにもしないですごした。なにかやらなければならないのだけど、気分が、おちこんで、うごけなかった。たとえば、文書を整理するとか、なんらかのしごとをしなければならないのだが、どうにも、それらのこともできなかった。 なにやら、からだが、だるい。ずっと、だるい。 ああっ、こどもたちは、どうなるんだろう。どうせ、しんでしまうのに。なんだって、人間はいきてんだろう。ほんとうに、これは、わからない。わからないのも当然で、これには、なぜ、ということはない。まったくないのだ。 けど、まあ、いきちまってるわけだ。 どうしんでもいいけど、なんか、たまったもんじゃないなぁ。