これも、今読むとは恥ずかしい文章ですね。
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僕のいいたいのは、すくなくても、「機械悪もの視」をやっていたのでは、いつまでたっても地平はみえないということだ。地平がみえないどころか、対処することさえできないのである。対処することさえできないどころか、まさしくそれについてかんがえることさえできない。ぼくは、この、「かんがえない」状態がおそろしい。このかんがえはさまざまなところで、支持され、勝どきをあげ、爆発するだろう。爆発する危険性を常にはらんでいるのだ。(### 機械が人間の人間性をうばったとするかんがえたは・・・ 情念は・・・)
したがって、まず、機械が人間どうしのつきあいやパトスをなきものにしたというかんがえかたは、すてるべきであって、・・・ すてなくてもよいから、すくなくても、うたがってみる必要だけはあると断言できる。 ほんとうに、『機械の発達が人間のカオスやコミュニュケイションをうばった』・とえば、きもちがいいのだ。しかし、ぼくはそこに伍することはできない。さっきもいったように、目の前にある機械は、人間のカオスの結果だからだ。より強いかたちで、自分の内部が『外に』・あらわれたのだ。それゆえ、人間はそれをおそれる。まさしく、『おそれる』のであって、おのおのきとうざける。(まさに、タブーなのだ。使ってはならぬもの、見てはならぬもの、開けてはならぬもの、ふれてはいけないもの、さわってはいけないもの、なのだ。)
『莫大にデカク』という基本性質がおそらく問題になってくる。莫大にデカクあらわれられると、人間はこまってしまう。それは人間がつかうものとして、つまり、人間の抑制力をこえてしまう。容易にこえてしまう。だから、おそれるのだ。つまり、そこにあらわれているのは、『巨大な』自分の力なのだ。したがって、拒否し、おそれる。 おそれるこころはちかずくこころとうらはらだ。いっしょのものだ。したがって、この一方のみをとりあげることはできない。おそれるこころがありながら、ちかずこうとするこころもあり、ちかずこうとするこころもありながら、とうざけようとするのだ。この一方をとりあげて、それが満場一致の人間のこころだとおもうのは軽率にすぎる。ぼくのおそれるのは、そのいずれかに立って、その『残りの』一方を軽く否定して考えないようにしてしまうことだ。
###(パソコンは人間の脳の流出物だとしても)
(原始的な反応をするのが、もっとも、僕の恐れることなのである。)
卑小な存在であるわたくしめは、ざんねんながら、こうごうしい神のまえに ひれふしてしまいます
たとえそれがからっぽの神殿でも
・クソ教養主義がいかんのだ。かれらはクソたがら、そこからでてくるのは、クソばかりだ。 それでもかれらは、クソ教養主義にへばりつくだろう。
それはめにみえてあきらかだ。彼らの目に見えるのは、クソ教養しかないからだ。それ以外のものを経験してもいなければ見てもいない。経験していないものを、どうやってわかる!
だから、ぼくは言語につまる。 経験していないものをどうやってわかってもらおうか?
もちろん、それは僕の高慢だ。
ところでだ、しかし、おねがいだから、偏狭な教養主義はすててくれ。
偏狭な教養主義というのは、いまやっている『教養』を支持するようなすべてのかんがえかだ。『もっと、教養を増やさなければならない』・という時の、教養だ。また、科学者などが偏狭な自分の専門部やにこもってしまい、こまったことになる。もっと大学で、幅広い目をやしなえるように、ちがった分野の教養科目を増やそう・というときの、教養だ。 これらは、すべて、くだらない。 いま現在、大学にある教養は、すべてくだらない。否、! 専門科目さえもくだらないのだ。それは、『専門的な教養』・になってしまっているから。
これらのくだらないものをすべて否定したところに、『くだらない教養』・ではないものがある。
だから、まず、おしげもなく、『教養科目』を全廃してまうこだ。それらは、たたきつければよいのだ。たたきつけて、割って、そのなかから、自分で選べるようにする。没頭する教養の自由も保証しなければならない。ぼくらにできることは、それだけなのだ。教養という一般科目をつけたすな! それは、偏狭な教養だから。偏狭な教養に対する価値観に由来したものだから、これらは、まったく、根拠がない。これっぽっちもない。 いったい、ひとつの芸にすぐれたひとが、『かたよっていた』・ということがあるのか? ないのだ。彼らが想像する専門バカというのは、彼らがつくったような教養をやってきた人間なのだ。つまり、二流の専門バカなのだ。いな、三流四流・・・ 。
そこで僕は断言するが、専門は、これらのクソくだらない教養主義をこえたところにある。そこで僕は宣言するが、教養は、これらのクソくだらない教養主義をこえたところにある。
『科学が学校にうりわたされたこと』・をかんがえなければならない。ぼくは、なげく。なげきの子だ。どうして、科学が学校などにうりわたされなければならなかったか? なぜ、それらに、アホな保護をもとめなければならなくなかったか? なぜ、歴史はそれを許容したか? ・・・ なげかなければならない。これらは、不幸なことだ!
1のぶんしょうは、おわりのころにくるぶんしょうだ。これにかんしては、いちいちせつめいすまい。しかし、これはむらやまさんには、げんがくてきだとしっしょうをかいそうだ。そこで、ことわっておくが、これにかんしては、ちゃんとふくせんがひいてあるので、しんぱいにはおよばない。
僕は、『快感』のほうのはわかる。ただしかし、『飽き』のほうがわからない。僕は、快感の反対は『苦しみ』だとは思わない。快感の反対は『飽き』なのだ。これは、脳内における限りただしいとおもわれる。快感の方には、文献がある。ゆうつにも、苦しみにも、ある。しかし、『飽き』の方は、少ない。ぼくは、快感と照らし合わせた意味での、脳内における『飽き』についての論文をみたことがない。もちろん、これは僕が調べていないからだが、調べられるような状態ではないのだ。どこにあるのだ。僕は本になって出ていないと、調べあげる力がいっきにおちる。僕は論文を好きなように閲覧できる立場ではない。検索ツールを自由に使いこなせる立場ではない。僕は、カンをたよりにしていきてきた。ところで、目の前に、本というかたちで、あるいは論文というかたちで出ているなら、カンをはたらかせることができる。しかし、だめだ、僕は、その立場にな、い。そこで、脳内の(とくに前頭葉、あるいは脳幹における)『飽き』・の構造をあきらかにした本をご教示願いたい。