前略
僕が、このあいだ『論』のことではなしたいといっていたことは、『どうして、「反学校」も「学校」もおなじところにおちていくのだろう』ということなのです。これは、ぼくが、本屋をまわってみながら思ったことですが、『なんで、いわゆる「学校批判」側のほうも、いわゆる「純正の学校」側も、どうして、おなじところにおちていくのだろう。-- 彼らの主張はまったくおなじじゃないか』 ということなのです。出版社にたずさわっている人だとおもって、手短にいうと、『どうして、太郎次郎社も国土社も清水書院もまったくおなじなんだろう? 』ということなのです。
また、教育論というと、シュタイナーとかフレネとか長野県の小学校やそういったものがとりあげられますが、『どうして、やることをやってからそれらのものをとりあげないのだろう』ということなのです。理想は、たかくもっていい、-- 人間の教育でも こども能力を開花させる教育でも、
なんでもいい。ただ、それらは、どちらかというと対処できない問題であって、崇高な問題であって、そのまえに、まだ、やりうることがたくさんあるのではないか、ということなのです。こりゃ・まったくのバカだ。地ならしをしないで、高いものばかりもとめる。そういったものは、よういにはめとめることができないから、高いのだし、行政を利用しては、絶対に、求めることさえもできないしろものなのだ。ところが、彼らは、それらの点においても、やっぱり、行政や学校(組織)というものに、過度な期待をしてしまう。たとえば、人間性が大事だとして、それを行政的にどうやろうというのだ。『人間性をたいせつにしましょう』などといって人間性がたいせつにされるなら、それは、『人をあいしましょーーー』といって、すべての犯罪がなくなってしまうのを期待するようなものだ。ポンチ絵にもほどがある。もしそうなら、『戦争をやめましょーー』とか『犯罪をやめましょーーー』とか、いくらだっていえるのだ。しかし、犯罪もあるし、戦争もある。みんなそういったことは、わかって、やっているのだ。やらざるえないような状況においこまれたり、状況が発生したりするから、『しっていながら、わかっていながら』、やらなきゃならなくなる。そんなことは、それこそ『人間として』、生きていればわかるじゃないか。そういったなかで、どうしなければならないかを考えなけばならないのに、それに関しては、なぜか深く考えるのをやめてしまって、ただ連呼するだけにおわってしまう。(ウッたえかけるのには、おそらく、なんらかの開放感や、快感があるのだろう。(あるいは、自分がいいことをしているという気持ちかもしれない。)ところが、そういったこと自体が実際には、まずい状態のひきがねになる、あるいは、ひきがねに根本ではつうじることになるのじゃないか。
(###戦争がわるいとか犯罪がわるいとか、そんなことは、だれだって、わかってんだ。だれも、しらないで、やっているわけではないのだ。)
なんで、『人間の教育』におちていくか、僕はひじょうに疑問を感じるのだ。なおかつ、彼らの高慢さにむかつく。人間なんて『教育』できるはずがないじゃないか。そりゃ、たしかに、影響をあたえることはできる。しかし、意図的には影響をあたええない。こりゃ、心理学をやっていればわかるけど、人間は、Aという方向におされたら、Aという方向にうごくものではない。意図的に教育するということはできないのだ。(だって、こころのメカニズむさえわからないのだから。さらに、精神分析をやったところで、ひとつのもっともらしそうな『解釈』が、できあがるというだけなのだ。
彼らは何か、『こう教えれば、こうなる』という因果を認めているようだが、それは、じっさいには、人知をはるかに越えてしまうできごとなのだ。人間は、人間の裁き手にはなりえないし、(なぜなら、だれがいったい裁けるというのだ? だれがいったい、他の人間に対して、それほどえらいのか? 裁けるはずはないのだ。ただ社会的承認において処することしかできない。この「人間は、人間の裁き手になりえない」というのは、ドストエフスキーの命題だが、裁き手になれないのに、教育家になりえるはずがないのだ。彼らはあんまりにも無邪気に、『教育』なるものの、有効性を信じている。『その信じこみかたが・問題だ、きけんだ、あぶない』といっているのだ。人間は、人間を教育することはできないのである。
話しはかわるけど、いまの学校といのは、無機的な機構としてかたちづくられている。その地域に住んでいるひとが、無造作にかきあつめられるのだから、あたりまえじゃないか。ところが、この無機的な(ほんらい無機的な)組織に、なんらかの『有機性』を付与しようとしてやっきになる。それが、30年前のひとたちがみていた、あるいは、いまのひとたちも大部分のひとがみている、『学級の幻想』だったとおもう。学級の幻想は、学校の幻想であり、学校社会・学歴社会の幻想なのである。これらは、一連のものである。学歴社会はわるいけど、学校はわるくないといういいかたはできないのだ。ところが、彼らは、いったん学校のとある部分をわる玉として攻撃し出せば、それで安心してしまう。しかし、学校のわるい部分は、そんなところにあるのではない。彼らの無邪気な幻想の中に、幻想のもたらす実際上の圧力の中に、あるのだ。これは、まえもはなしたかもしれないけど、なにか、学校の問題がもちあがると、すぐに『学級や学校の人間関係』でのりきろうとするが、それはまったくの逆なのである。彼らの学級が拷問の実体なのだ。学級の問題がもちあがったとき、『学級の人間関係のきずな』で、のりきろうとする。しかし、それはほんらいがまちがっているのだ。教育側も(正統学校教育側も、)『学級』や『人間関係』でのりきろうとするし、反正統学校側も、やはり、『学級』や『人間関係』・でのりきろうとするのだ。そしてこれが精神論なら(精神論でもないのだが、・・・ずいぶんとドブに落ちた精神論だ・・しかし、彼らのいう意味での精神論だとおもってほしい)・・ 精神論なら、 法律や戒律、きまり、『機能』でのりきろうとするのが、現実論なのだ。 ぼくは、やってられない。このどちらも、おおバカものだ。このての『批判』しかでないから、アホなのだ。これは、僕が冒頭で言ったことに関連する。すなわち、どちらも、おちている。はなしにならん。これが、現状といえば、現状だ。
ところで、『人間関係でのりきろうとする』といったときに、『べつに人間関係でのりきろうとしているわけではない』、というひとがいるだろう。しかし、あきらかに、人間関係でのりきろうとしているのである。あるいは、人間関係でのりきることに、き・た・い・する。この期待感は、さっきからいっているように、そうとうにおおきい。そりゃ、ほとんどこのままの状況では解決不可能な問題だから、(解決しない問題は)、そういったことに『期待』するしかない。という状況なのだろうけど、それにしても、のろわれた状況だし、ばかな状況だ。人間関係とかそういったものをかるく口にしてほしくないのだ。なおかつ、救世主のようにあがめるようにしてくちにしてほしくない。それこそ、『非人間的な態度』といえるじゃないか。
(かってに『人間性』をそんなに期待の込められるものにするな!! ということである。人間関係のあるところで、それだけもめているのだから。どうにもならないところに生きているから、人間性(ジンカンセイ)なのではないか。短くいってしまえば、そういうことになる。しかし、これを長くいうのは、たいへんだ。なおかつ、わかるようにいうのは、ひどくたいへんだ。おそらく、いまのいいかただと、誤解をうけたかもしれない。僕は最初、それこそ、『非人間的な態度』でおわらせようとしたのである。しかし、それだと、わからないとおもって、いろいろ、つけたしてしまったのだが、それは、すなわち、まちがいの文章である。やはり、『非人間的だ』でおわらすべきだったとおもえる。すくなくても、それのほうが、まちがいを含んでない。)
((とどのつまりは、わかりやすくしようとおもって、いいたいことをわすれてしまったのだ。つけたすのは、簡単だし。))
ともかく、『非人間的』といったのは、そのことばのとうりにうけとってください。実際に僕には『非人間的』だし人間というものをまったく無視したみかたのようにおもえる。これはヒューマニズムの意味での人間性ではない。つまり、とくにいい意味がこめられている人間性ではないということに、いちよう注意しておいてください。僕のいう、人間性というのは、いっつも、そういう意味だ。『そのもの』、という意味だ。いいのでも、わるいのでも、なく、そのものとしての、『人間性』という意味だ。
丁寧表現ではじめて、けっきょくは、断定の表現になるという無礼をおゆるしください。もともと、ぼくには、丁寧語で文を書くくせもなければ、ものをかんがえるくせもないので、ついうっかり、ものをかんがえるときの文体になってしまうのです。(どうしても、きにくわないというときは、その旨伝えてください。そのときは、丁寧語で書き続けます。)
・このあいだ、ききたかったことというのは、冒頭にかいたとうり、『どうして、純粋学校側も学校批判側も、ひとつのところにおちていくのだろう。』『そのことについて、どうおもいますか。』ということなのです。どうおもいますか。いちよう意見をきいておきたい。
小説に関する補足事項)
・実際に、一枚のシートは、40*32で出力してあります。僕は、これが適当だとおもいます。すちわち、すこしおおきな文字で(40)一項につき、16行ということです。おおきさは、僕のイメージでは、A5。
・手短にいえば、どっからでもよめる作品をかきたい。これは、論文にもいえる。どっこらよんでもいい論文をかきたい。もともと、科学の発達はそういったものだったのです。科学の発達は、ここではめんどうですからかきませんが、参考資料をつけておきます。(参1)
僕は個人的にいえば、論文は、「ここぞ!」 と思ったところから読み出す。つまり、それが、出会いなのだから。小説の場合はそのようにいかない。小説はものがたりであり、ドラマツルギーであり、シーケンシャルファイルだから、前をよまないと、なにがなんだかわからなくなる。しかし、本当にそうだろうかとかんがえる。小説でも、ランダムアクセスできる小説があってもいいじゃないか。とおもう。おもうどころか、それが僕の望みだ。
・だいたい、本をいちからじゅうまで読む人というのは、少ないのではないだろうか。たとえば、雑誌に発表したいくつかの論文を本にまとめる場合は、かならず、1章、2章、3章、4章・・というぐあいに編集する。ところが、もともとは、単発のもので、順序はなかった。そうしたばあいは、『どっから読んでもいい』のだ。たとえば、2章をよんで、5章をよんで、というよみかたをしてもいっこうに問題はない。ところが、1、2、3、4、・・とつづいている場合は、たいてい1章から読むものなのだ。最後まで1、2、3、4、・・といけば、いい。しかし、くだらないものを読むというのは、たいくつなことだから、途中で挫折したりしてしまう。いちど挫折すると、あんまり読みたくない。それよりは、さいしょっから、章を無視して、自分の興味のもっているところから読んだほうがより良いのだ。たとえ、わからなくても、ああ、3章をよめばいいのだな、ということが『わかれば』いいじゃないか。そのような問題意識のあったほうが、もちろん、問題意識のなかったときよりも、よりよくあたまにはいるのだ。5章をよんでいて、『これは知らないな、なんだろう』・と思って、3章を読むと、そのことについてくわしくかいてあった、というほうが、順序立てて1、2、3、ときて、3章を問題意識もなく読むよりも、より、良いのだ。番号をつけるということは、あきらかに読み方を『き・て・い』してしまう。意識とは関係なしに、読み方を規定してしまうのだ。それは通常無視できるほどちいさいものだが、みかたを規定しているには、かわりがない。(ぼくはこのことについて、いちいち文句をつけない。なぜなら、勝手に読めばいいのだから。しかし、論文のやり方には、むかつくものがある。むかつくというよりも、ひじょうに、つまらないものになってしまうのだ。)
みかたを限定するについて、たとえをあげるなら、たとえば、劇場に劇を見に行ったことだ。そういった場合には、舞台のだれを見てようが自由だ。主役じゃないわき役のうごきを見ててもいいし、舞台セットのとある部分をみていてもいい、セリフを聞きながら、目をとじて考えるのもいいだろう。しかし、これが、いちど、テレビにのると、みかたが規定される。すちわち、カメラマンの意図が(もっといえば、こういうときには、こういうカットをいれるということを総合的に決めるひとのみかたの意図が)反映されることになる。主役がアップになっている時に、別のわき役の反応を見ていたいかもしれないのだ。しかし、それは、個人的な見かたである。そのような見かたは、実際に、劇場にいかなければ、見れない。(個人的であって)マスではないのだ。これは卑近な例である。僕は、これにかんしては、あまり、文句をいわない。テレビで見るというラクをしているのだから。(それほど関心がないのだろう。)それに、本を読むばあいも、もんくをいわない。それは、さっきもいったように、いくらでも好きなところから、読めるからだ。しかし、本を書く場合は、ちっと、もんくがある。なるべく、どこからでも読めるものにしたい。ひっくりかえって読んでもさしさわりのないものにしたい。さらにいえば、ランダムファイルにちかいものにしたい。と思う。
・現代人は、物語り性とか統一性とか構造性といったものを求め過ぎる。ほんらいは、そういったものでは、なかったのだ。なおかつ、いまでも、そういったものではない。いわゆる、論文の書き方が発達したのは、つい最近のことなのだ。そして、客観通常科学の方法を用いて(すなわち、論文のかきかたをマネして)ふつうの本が出されるようになったのは、もっと、もっと、最近のことなのだ。(同参1)ところが、これらは、通常の客観パラダイムの上にのっかっている場合には有効なのだが、一歩でもそこを出れば、不有効なものになる。もし、ほんとうに学問をするとなると、あいかわらず、人間は対談という方法に頼らなければならない。(ぼくのやりたいのは、学問であり、生活の学問である。)
・客観パラダイムにも、そうとうに問題があるが、客観パラダイムを信じてしまうことには、もっと、問題がある。
・ところで、僕は、混乱がくるだろうといいましたが、あれは、本当です。僕は、この作品で混乱の混乱たる状況をかきたい。
・今回送った文章も、村山さんの指摘した(どこで改行か、何行いれるのか、どういう形式で書くのか)という点については、注意して、書いてはいない。その点に関しては、のちに相談しながらつめていくつもりだ。 ・僕は、コミックのような論文のようなそれでいて印象にのこるタイプの文章をかきたい。
(本のボリュームと人間の心理的エネルギー)について
・一冊の本があついとしてそれが、はやく読めるのは、魅力だ。「よんだーーーー!」というつもりになれる。この満足感は、たいせつなのだ。小説などで(世間・学校から文学指定されているばあいには(つまり、ソウセキとかダザイとかアクタガワやヘッセのいわゆる名作のばあいには、)高校生は、うすい本を読みたがる。それは、とりもなおさず、うすいにもかかわらず、「一本よめた!」といえるからだ。一冊の名作と、その三倍の量を持つ名作のばあい、(つまり、前の本だと一冊で何々を読めたといえるのに、うしろの本だと、まだ1巻目しか読んでないということになるのだが、・・ こういった場合には、)一冊で終るほうを読みたがる傾向が歴然としてある。
コミックが売れるのは、読む時間が少ない割に、「よんだーーー!!」という開放感があるからだ。つまり、そこにそそぐ、体力や時間の量が甚大だと、(よっぽどの読みたい気持ちがないと)読むことはないのである。(それに、いいかわるいかは、読んでみないと、(すちわち、読み出してみないとわからないので)フトイ本は敬遠されてしまうのである。部数を問題にするなら、このことに注意すべきである。
あんまりにも長すぎて、(徳川家康とか、)なん十巻も進む場合には、それを『売り物』にするしかない。つまり、より難しいことを達成したいという気持ちが(読んでるあいだ持続して)読み続けるという行為を続けることになるのである。こういう効果は無視できないのである。(むずかしいファミコンと簡単なファミコンでは、とうぜん、むずかしいほうが、より達成感があるのだ。また、シールを集めたり、そのまま『量』がかえってくるものは、より困難なものが好まれる。これは、より武者修行に堪えたほうがエライのだとする観念、すなわち、到達の観念とそれにあこがれる気持ちのあらわれなのである。これは、コドモどころの話しではなく、人間一般のにいえる話しなのである。(補足だが、連載中はそのかぎりではない。単行本になった時の話しだ。)・したがって、(このことを考慮した場合には)
ドバっ・とあついか(何巻も続くか)、ごくごくうすいというにタイプに分かれるのである。
・まず、長い話しは、(よっぽど内容がなきゃ、)読む気なれないだろう。短いのでもよいのだが、(たとえばアクタガワ、カジイなど)それでは、達成感のリビドーからいうと低いだろう。そこで、僕の書く本は、そのふたつの利点をかねあわせたものなのである。すちわち、カルク読めるわりには、本が見た目アツイから、達成感がもてるという本なのである。(これは、さっきも、説明したが、コミックのやり方なのである。問題は、実際の量ではなく、見た目の存在感なのである。(まんがで、まるで哲学書のような重版ができるのは(それは、ちょっとまえのブームで、いまは定着した)、この効果のしくみをものがたっているものなのである。
・なおかつ、コミックにはない、思考性があるのだから、読んだという感じがするだろう。(だましているわけではない。)これはいうことがないのである。
おとなが問題にしているのは、コミックが「かるい」ということなのだが、じつは、コミックは(おとながそんなことをいっているあいだに)そうとうなことにチャレンジしてしまったのである。そうとうな問題にチャレンジしてしまったのである。だから、ヘタな文学などよりも、文学性を『もっている』コミックがあらわれるのであるそれが、コミック隆盛の一つの大きい原因なのである。ここのところに、注意されよ。
さんざんいうが、僕のほんの特長は、ふといのに、「かるく読める」なのだ。どちらの条件も満たしているのである。うすすぎると(「なんでぇ、あれなら、簡単に読めるじゃないか」という考えが、今度は支配的になる。もっとも、くちにだしていったりはしないが。だから、あきらかにその中間を行く、ぼくのかき方は、盲点をついているものなのである。)
それにこれは、そのようなかたちであって、そのようなかたちになる。というものなのである。ここらへんの「売れるとか売れないとかを計算して」導き出したのではなく、僕の、書き方が、僕の書きたいことに非常にあっているから、やもなく、そうなるのである、とう点に注意してほしい。すなわち、それは、そうなるという必然性をもって、そのかたちであらわれるのである。しかるに、あなたの立場にたってかんがえてみるならば、なおかつも、今、指摘したとうりの利点がある。
(参2を参照のこと)
・げまいんしゃふと ようするに、ぼくのいいたいのは、そのひとにとっていみのない・げ・よりくるしいものはないから、がっこうは、いちど、げぜ・にいこうしなければならないということなのである。じぶんでこれがわたしのげ・であるとおもうとどうじに、そこにはしゃかいのしょうにんとしてのげ・とがあるのである。げ・というばあいには、しゃかいのしょうにんとしてのきのうのほうがおおい。ところが、しゃかいのげ・のしょうにんと、こじんのげ・のしょうにんがくいちがってしまった。これは、ふこうなことなのである。そこで、いちど、げ・をこわして、がっこうをこしかけてきそんざいにして、そのあとで、じぶんがこれがわたしのげ・であるといえるような、こじんにとっていみのあるそしきをつくりださなければならない。それが、とりあえず、にんげんのかいほうであり、こじんのかいほうなのである。
・もじ
このことにかんしては、ひもじぶんかともじぶんかのことについてかんがえなければならない。ひもじぶんかというのは、もじをもてなかったみかいのぶんかではなくて、もじをもつことをむいしきてきにちょっかんてきにさけたぶんかなのである。もじをもつとどうなるか・ ・・ げんざいのようにじんるいがしょいきれないもんだいをせおいこむようになるのである。とうてい、いまのじんるいには、げんざいやまずみにされているもんだいをしょりするちからはない。このけっかをちょっかんして、もじをもつことをさけた。
たしかに、これはかせつのちいをまのがれない。しかし、もじがないから、みかいなんだ。もじをおしえよう。」というのは、あまりにも、きんだいしゅぎてきなきんしにおかされている。かれらは、いとてきに、むいしきてきにさけたかもしれないのだ。どちらかは、まだ、わからない。
たしかに、もじをしらないのは、このぶんめいのなかでいきていくには、あまりにもおおきいふたんになる。だから、もじはおしえなければならないが、そのうえで、もじのちくせきとぶんめいのそくどということについてかんがえなければならないのである。
それとなんべんもしゅちょうすることだが、もじと、ほかのがくりょくといわれているものは、こんぽんてきにちがうのである。まったくちがう。まったく、ちがうものとしてとりあつかわなければならない。これらを、いっしょのものとしてとらえてはいけないのである。もじというのは、げんざいのしゃかいにいきるぱすぽーとのようなものである。これがないとたいへんにくるしい。いらないこんぷれっくすもかんじるだろう。しかし、ふこうなことに、これだけおやのしきじりつがあっぷしたしゃかいでも、がっこうをとりつぶせば、かならず、おやにもじをおしえてもられないこがでてくる。おやがもじをしらないりつがたいへんにたかいばあい(たとえば、めいじのはじめなど)と、おやがもじをしっているりつがたいへんたかいばあいでは、じょうきょうをわけてかんがえなければならないのだが、このじょうきょうについてかんがえるばあいは、よりよいじょうきょうをもとめるばあいである。もじはくになりこうきょうたいがほしょうしなければならないものであり、そのいみでは、じゅんすいにがっこうてきでありうる。すなわち、あるていどのきょうせいりょくをもつ。きょうせいりょくは、こどもにではなく、おやにである。じぶんでもじをおしえることにせきにんをもつばあいならよいが、せきにんをもてないばあいには、がっこうにあづけてもらうしかない。このように、もじにかんしては、がっこうは、さいていげんをほしょうするいみで、どうしてもひつようになってくるし、また、もじをおしえられないおやにたいして、きょうせいりょくをもつ。