かがくのきょういくについてあれこれいうつもりはないが、あほなかがくてきみかたをおしつけるのだけは、やめてほしい。かがくてきもののみかたはきょういくできないとおもったほうがよいとおもえる。かがくてきもののみかたのもんだいはいろいろあるだろうが、けっきょく、だれもがすきなときにまなべるかんきょうをつくるのがいちばんだとおもえる。だれもがすきなときに・というかんがえかたにたてば、もちろん、いまのきょういくは、そのそがいぶしつでしかない。まず、いまのきょういくのかちかんにたてば、『すきなときに』というようそをつぶしてしまう。すきなときにまなべるかいほうけいをつくらなければならないのである。そのためには、なるべくこまかくわけて、なおかつ、ぶんやをつぶし、だだっぴろくこういきてきに、きょくちてきにやれるようにしなければならない。それを、えらぶのは、こじんなのである。
やっちゃ、いけないぎろんというのがある。ところが、にほんのばあいは、ほとんどがそのやりかたでやっているのである。むしろ、まずいぎろんのやりかたをがっこうでおしえこまれているのではないかというきがする。まずいぎろんというよりも、まずいぎろんのはっそうほうをたたきこまれているわけで、これは、そうとうおおきなもんだいである。まずいぎろんのはっそうほうというのは、りろんではない。りくつではない。たいけんなのである。・・・ たいけんてきにんしき。つまり、はだで、『ぎろんというのは、くだらないものだな』とかんじるようなぎろんをこうぞうてきにおしつけられている。こっかいのとうべんは、くだらないだろう。ところが、ぼくは、これががっこうきょういくのせいかだとおもえる。しょさんだとはいわない。しかし、どっちがどっちをうみだしたにしろ、えいきょうはあたえつづけているわけで、どっかでそのわるいりんくをたちきらなければならないのだろう。こっかいのみっともないすがたは、そこいらへんでくりかえされているみっともないすがたのかがみだとおもっていい。それはもう、どこでもみられる。こくごやがっきゅうかいやどうとくのじゅぎょうからして、そうなんだもん。
それしかみせつけられてないから、そういったものだとおもいこんでしまっても、べつだんふしぎじゃないが、にほんのばあいだと、それいがいのものがなかなかできないじょうたいであるというのもじじつなのである。
じゃ、ちょっと、ぎろんというものについてかんがえてみると、にほんでやるぎろんというのは、ざっとこんなものだろう。 まず、けつろんがきまっているぎろん。 ぼくはこくごやがっきゅうかいやどうとくのじかんで、かなり、こっかいの