たのしみにしていたことが、ふたんになる もう、ぼくは、いかないよ
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わるいけど、おまえさんらのやりかたでやっているかぎり、にんげんのえいちなどでてこない。どだいがむりなのだ。 はんたいだ、はんたい。やりかたがはんたいなんだ。いれものとないようがちがっている。いれものといれようとするものがちがっている。まったくせいはんたい。
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なんていうんだろーー、ひとつのところで、むしされたことが、ほかのところでは、よいことしてむかいいれられることもあるし、ひとつのところで、ほめられることが、ほかのところでは、しがにもかけられないかんしんをひかないということもあるのだし、・・・ ようは、・・・ まあ、 いろいろだ。 それで、ばしょをかんがえたばあいには、これらのばしょがたくさんあったほうがいい。そこでは、だめだったけど、あすこでは、うけいれられたということをほしょうできるようなしすてむがのぞましい。それは、にんげんにとってたいせつなことなんだ。 ところが、ひとつのきじゅんをさだめてしまい、それをぜんこくにおなじようにてきおうするならば、ちがったものをみとめられるというざったせいがみとめられないことになるだろう。いまのがっこうのじょうたいというのは、まったくこういったことで、それは、がくもんのほんせいにさからうし、にんげんのほんせいにもさからうことなんだ。だから、たいせつなのは、ざったせいであって、とういつせいじゃない。とくに、しゃかいかがくやいけんにかんすることは、ざったのなかでしか、あつかえないものなのだ。もちろん、さいえんすもそうだ。だから、がくもんをはったつさせたいとおもったら、なるべく、ざったなじょうたいをたもつことだし、なによりも、それは、にんげんこじんにとってたいせつなことなんだ、ということをいいたい。
どうしたらいいんだろう。なんだかわんなくなった。