ところで、ぼくはおもうのだが、(でかるとだってらいぷにっつだって、にゅーとんだって、がりれおだって)、 そのひとのあたまでおもったことを、しりたい。つまり、もう、きまったものとして、うえから、しすてまちっくに、『わかりやすく』『せつめいしやすい、ととのったほうほうで』おしえられるよりも、そのかんがえかたのもとをしりたいんだ。もとと、それにたいするまちがった、あるいは、やくにたたなかったしこうをふくめた、そのひとのせいしんかつどう、あたまのはたらきというものをしりたい。ようするに、そうこうや、のーとやぎもんてんからはいりたいのだが、いっつも、ぶるとーざでとちをかいはつされて、もうすっかりととのったびるでんんぐ、たてものとして、 ぼくは、ほんとうには、そのひとのあたまで、どのようにかんがえがすすんだのかをしりたいんだ。そのほうが、よくわかる。なんだかしんないが、ぜったいに、そっちのほうがよくわかる。それに、・・のもんだいをかいけつするほうほうが、ほかにもたくさんあったんだなーーという、ぜったいてきではない、きていてきではない、きかくてきではない、しょうにんのしるしのついてない、こうにんてきではない、かんがえかたもたくさんできたんだなーということをしっているほうが、ものをかんがえるときのかてになるとおもう。(そうたいてきなしてんもみにつけられるし、ということで) もんだいは、がいちにたいするあぷろーちのしかたではなく、しらないこと・にたいするあぷろーちのしかたなんで、そういったきもちをいちじるしくきずつけられる。 たとえば、せいぶつなんかで、せいしのなかにひとのひながたをみたのは、ちゅうせいてきでかがくてきではないようなきがするが、いっぽう、ぼくには、まさにせいしのなかに、にんげんのひながたのようなかたちをしるしをみたというのは、かんじょうてきにはわかるんだ。 ところが、あんなせつめいにかかったら、ちゅうせいのひとは、あほなんじゃないかとおもうしかないんだ。ほんとうに。あほとしかいいようがないじゃん。あんなけんびきょうのしたのせいしのなかに、ひとのひながたがはいっているなんて、ばかとしかいいようがないようなかんじさえする。それも、ぜんせいろんなんていうもったいぶったなまえまでついていて、なんとなく、しんけんさがかんじられるぶんだけ、よけいに、あほらしいかんじもする。けど、 ほんとうは、ちがうんだ。おいそれと、ひながたがはっているようなみかたをして、ばかだなーとおもうほうが、ばかなんだ。そのいみでは、ちゅうせいのひとたちとまったくかわっていない。 というわけで、ぼくは、そのひとのあたまのなかで、そのようなかんがえがどのようにはったつしたのかをしりたい。そのほうがさんらんしてて、こんらんしていても、いい。ところがあいつらは、ととのったものを、ととのったかたちで、とりだすものだから、あいつらの『わかりやすい』せつめいなんて、 ぜんぜん、わかりにくいぜ! だいいち、はらがたつ。(いまは、びぶんほうのせっせんのかたむきの、さいしょのせつめいのことをおもいうかべてはなしているのだが、 あんなんで、『わかりやすくせつめいしてやっている』なんておもわれたら、たまったもんじゃねぇ。 それなりに、いろずりで、『わかりやすく』かかれているけどさーー。なんか、やなんだよなーー。)
そりゃ、おれは、せいせきがわるい。だから、こんなことをいうと、なにいってんだ! やることやってから、そんなこといってくれ』とあいてにされないようなきもする。これももっともないけんのようなきがする。できるようになってから、いえということだ。 これは、わからないではない。 だから、おれは、いっていない。 よこになりながらおもっているだけだ。 おもっているぶんには、どうでもいいだろう、ということだ。
しかし、ほんとうに、うちじゃ、べんきょうできないんで、いちびょうたりと、なにかりろんだったことをかんがえることができない。ひとつには、あにきのえれきぎたーとへびめたおんがく? (ただのそうおん)と 、もうひとつには、かれのいつなるかわからないそうおんにたいするきぐと、もうひとつには、それらのことをずっとくりかえされて、すっかり、きぶんてきにやりきれないおもいがしているかんじょうのせいなのだが、これにしたって、いうのは、やめている。いったって、むだだしな。 けっきょく、ふとんのうえで、おもっているだけだ。 おもっているぶんには、だれにも、めいわくをかけないし、だれにも、ばかにされないだろうから。
けど、こんど、うるせえ、しずかにしろ!っていって、しずかにしなかったら、ほんとうに、ころすかもしれない。 もう、あいつをだまらせるには、ころすしかないぜ!!
ほんとうに、 わらちゃうけど、 ぜがひでも、ぜったいに、やめないんだからな、
どうせ、おれは、よわものだし、
せいせきもよくないよ。 ^^^^ ^^^ ^^ ^^^^^ せいせきでおもいだしたけど、
ほんとうーーーーに、・・ー たいどかわるんだぜ、
ともだちの
おりゃ、なんだかしんないけど、さいしょのほう、なんだか、できるやつだとおもわれているみたいで、じっさいは、そんなにできないんだが、そうすると、たいどが、かわるやつがいる。なんだかさいしょは、うやうやしく(というよりも、なんていうんだろーなーーようするに、いちもくおいたようなたいどなんだが)しているのに、なんでぇ! こいつ、 ばかか』とおもうと、がらっとたいどをかえる。がらっというのは、ほんにんもなにかきずつくらしく、(あるいは、ひくつだったとおもうせいか、よくしらないがともかく)がらっとじゃないんだけど、さいしょは、がらっと、といってもいいぐらいのはんのうであることはたしかだ。ようは、およびごしに、ためしながら、『それでかくにんすると、もういっぽというかたちで』たいどをかえていく。
そんで、いっておくけど、あにきがしずかだったら、そいつが、まあまあ、さいしょのたいどをじぞくさせるようなてんすうはとれるんだ。それほどたかくないけど、ばかじゃないというせんだ。 そんくらいは、とれる。 しかし、まいにち、そうおんがあると、ちっと、ちがう。 だから、おれは、そのてんでも、はらがたつ。うちのおやは、がっこうにいってないから、ぜんぜん、わからないんだが(うちぐらいに、せいせきのことにうるさくないおやは、すくない。まったく、へいきなんだから。ぼくは、どんなにわるいせいせきをとってきても、せいせきのことで、いちどももんくをいわれたことがない。だから、せけんのさわぎようが、((ともだちのはつげんのいみが)いまいち、わかりかねるのだが、なんだか、てれびをみているようなかんじで・『そうなのかなーー』『そんなもんか、』とおもっている。 まったく、のんきなおやなんだ。のんきというよりも、ともかく、うちは、ふつうじゃないんだ。ところが、ほんとうに、まったく、ふつうなんだから、たちがわるい。))ともかく、ぜんたいてきにいえば、そういったいえにそだってきた。おやじにしてみれば、ぼくのせいせきはまったくかんけいない。だから、あにきのえれきぎたーがうるさいといったときに、・・・ぜんぜん、それから、かいぜんされていないわけだ。しかし、あのしょうろくのときは、じごくだった。ちゅういち、ちゅうにと、ほんとうに、じごくだった。それで、こうこうにゅうし、しっぱいだ。 だいしっぱいの、れんぞくしっぱいで。ほとんどれんぞくしっぱいのさいたきろくをだしたようなものだが、あんときのおれのせいしんは、にゅうしなんか、うけるまえにめちゃくちゃだったんだ。あにきとのもめごとで。えれきぎたーなんて、ほんとうに、すたじおにいってやれよ。そうじゃなきゃ、へっどほんをしろってんだ。けっきょく、てすとのみっかまえぐらいから『さも、おんにかけるように、』『しずかにしてやる!』ということで、しずかにしてもらったんだが、『しずかにしてもらったんだがなんていうと、じぶんではらがたつ』』 、みっかで、にほんのこうこうにゅうがとっぱできたら、
だれもくろうしないんだ!!!(4)
ばっきゃろう!!(3) ということで、いまでも、おれは、ねにおもっている。われながら、やなやつだとおもうが、ほんとうなんだ。それから、おとがきえたわけじゃないしね。ほんとうに、しゃかいにでるまえに、あいつをころしてしまうか、そうじゃなかったら・・・・ いずれにせよ、だめだ。 かねが・・ かねが、 ものをいうせかいだからな。 なんにも、のぞみを、つなげられない。 ^^^ ^^^^ ^^^^^^
まあ、おれが、どうおもってようが、おもっていないがにかかわらず、にちじょうというのは、すぎさっていくわけたがな。 まったく、にちじょうというのは、いだいだよ。すべてが、うもれていく。にちじょうがこんなふうでなかったら、にんげんなんてやってられないんだ。にちじょうにかんするはあくりょくが、にんげんていどのたいしたものではないから、にんげんは、なんとか、にちじょうをやりくりできるだけなんだ。ほんとうに、。 これは、ぜつだいだ が
ほんとうに、まいった ああ~~~~ みじめだったこうこうにゅうし。
あぶなかった(ギ)
こうこうにはいったあと、それなりにきをとりなおして、がんばってやってんだが・・・もう、
なんだか、つかれた
くそくだらないにちじょうだ。にちじょうに、うもれていく ” かにくわれたぐらいで、
しにたくおもっちゃうよ かはどうして、いきてんだろう