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ひらがな日記思考のままに入力

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アート的知的技能というのは  0108

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アート的知的技能というのは  0108

当然のことながら、アート的知的技能というのは、芸術に、テクノロジー的知的技能というのは、知識にちかくなる。本来的にはアート的知的技能とテクノロジー的知的技能はわける必要はあまりないとおもわれるが、ぶきようで言語的能力にすぐれている研究者を器用度テストでおとしたくないから、いちようわけておく必要性をみとめる。アート的知的技能は、こないだもかいたように、もちろん、器用度テストをやって優劣をつけるようなしろものではない。器用かどうかというのは行為の中にうめこまれていなければならないからだ。知識と技能をわけておく必要性はあるが、アート的知的技能とテクノロジー的知的技能をわけておく必要性は、あまりみつからない。ただし、技術といったばあいには(僕は、技能ではなく技術ということばを使っていた--のだが、そういうばあいには)やはり、わけておく必要性がある。これは、純粋にことばの問題である。技術がテクノロジー的知的技能を意味するのか、技術がアート的知的技能を意味するのか、混乱するのをさけるために必要なのである。
                                                                                
                                        じ・ついてかんがえていたのだが、ぼくにはどうにも、ふ・て・とま・て・というわけかたがふにおちない。つまり、なにかたしょうずれているのではないかというきがするのだ。もっといいわけかたがある。
#ているのではなく、がするようになったのは、たいぷについてしこうしているときにきもっといいわけかたがある。                                                                                          
いっしょにいるじかんがながいからなのである。つまり、まるくすはのうみんとろうどうしゃのちがいについて、ろうどうしゃはあつまり、しごとがおわったあとはなすじかんがあるが、のうみんのばあいは、いっけんいっけんのきょりがながいため、めったにあつまるわけにはいかないということを                                                                                                         がっこうはじくそーぱずるのようで、でっぱったのもいればへっこんでるのもいていろいろだが、よびこうやじゅくはとらんぷので、てんすうはちがうけど、みんなべっこでばらばら・というようなはつげんがあったが、このてのことばにこめられているいみはわかる。ようは、がっこうはにんげんてきで、じゅくやよびこうはこんげんてきてではないといいたいのだろう。あるいは、がっこうはゆうきてきだが、じゅくはむきてきだと。がっこうにはひととしてのふれあいがあるが、じゅくやよびこうには、ないのだと。  これらはいっけんただしくおもえるが、じつはたいへんにまちがっている。もし、それをしりながら、このようなことをながすとしたら、それは、そうとうなまちがいである。なおかつ、ぼくはこれらのはつげんのなかに、おそろしいほどのがっこうすうはいがっこうしんこうをみるのである。                                                                                                                                                                                                がっこうというのはちしきしかたんとうできないのである。ちしきのほかの、たとえば、ふれあいとかにんげんとしてのつきあいとかどうとくなどは、がっこうのしょいきれるものではないのである。それを、あたかもしょいきれるようにかていして、あるいはきぼうして、できもしないところにいろいろなせきにんをなすりつけてきたことに、げんざいのもんだいがあるのである。がっこうはちしきしかおしえられない、といえば、そくざにはんたいがでるだろう。がっこうはちしきをおしえるだけのところではない・と。ところが、がっこうはじゅんすいにちしきだけしかたんとうできないのである。がくもんでさえもたんとうできない。いわんや、どうとくもがなである。にんげんせいなどとんでもないのである。ぼくは、げんみつに、がっこうでとくをおしえてはいけない・といっているのではない。がっこうはちしきのほかにもがくもんやとくをあつかうということをぜんていとするよりも、がっこうはちしきしかあつかえないということをぜんていとするほうがひがいがすくなくてすむといっているのである。もし、がっこうがちしきのほかにもとくやせいかくをあつかうことができるということをぜんていにすれば、そくざに、どうとくてすとのもんだいやないしんしょのこうどうのきろくとせいかくひょうかのもんだいがふじょうしてくるにきまっている。これらは、ほんらいあつかえないものを、よくばって、あつかってもよいようにおもっているところからしょうじるもんだいなのである。ちしきだけしかあつかえないとしたほうが、はるかにひがいがすくなくてすむのである。それに、ちしきだけしかあつかえないというのは、がっこうのめいだいでもあるようなのである。
ちしきというのはもともと、ふへんかしているから、ちしきなのである。すなわち、                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
ひとつのことがひっかかって、ぜったいに、それができないということが、ぼくにはある。ほんのちょっとしたことなのに、ぜったいにできないのだ。のこういはそのぜんたいのこういのなかのほんのいちぶで、つうじょうなら、ぜったいてんちてんめいにけても、たいしたことじゃないのに、なぜだかしんないが、それが、でだしのいっぽとして、とくべつなおもみをもつようになって、けっきょくは、そのこういをふくむこういぜんたいを、だいなしにしてしまう。それは、しこたまある。ほんのちょっとしたことが、きにかかってぜんたいをだいなしにしてまうのだ。そして、ぼくもしっているとうり、それは、けっていてきなことではない。それは、どちらかというと、ちっぽけなことで、ふつうのひとならまったくきにならないことなのだが、なぜだか、ぼくには、けっていてきにやりたくないことになる。けっきょく、できない。ちかづけない。
もんだいは、それがとるにたらないことだと、ぼくじしんがしっていることだ。しかし、いかんせん、どうにもならないのだ。このせいは、さいきんとみにひどいが、もともとせいへきとしてあったようにも、おもえる。もちろん、そんなことをおもうのは、ぼくが、ひどくはんせいをしているときで、いままでのいきかたをあらためるようなときだが・・・すなわち、こんかいのいっけんではなく、うまれてこのかたにげんいんがあったのだとするかんがえかたは、いまのありかたをはんせいしているときしかあらわれないのだが、つまり、ぼくはいまだにやつらをうらんでいるし、(うらんでいるとは、やなことばだが、じじつなのでしかたがない。)ぼくは、ときどき、あにきとけんかするゆめをみる。それは、じんじょうなはなしあいじゃない。あのこうふんしきったしーんのさいかいなのだ。ぼくは、そういうとき、どなって・おきる。まったく、ふしょうなはなしだが、どなっておきるのだ。どなったじぶんのこえにおどろいて、めがさめる。ぼくはここのところ、たびたびこんなことをくりかえしている。じっさいにおきたとき、まだ、いかりでしんぞうがたかなっているのだ。たとえそれが、よなかであろうが、あさであろうが、むかついているのだ。ぼくはほんとうにむかついているし、おきたときなどは、あっちのほうがほんとうなのではないかとおもうほどだ。つまり、あっちのほうが、りあるでげんじつだ。そして、ぼくは、ひるま、へなへなになる。ういさかまのがきとかぎのそうおんにあわされて、ふとんで、いらいらとねているのだ。こればぼくのろうにんじだいのきおくだ。ほとんど、まいにちのように、そうやってすごした。ぼくは、あにきにもむかついているし、おやにもむかついているし、りんじんにもむかついているのだ。しねか、いきるか、ころすかだ。                                                                                とくに、あいつ(あ)はゆるさない。それは、きょうのゆめをひいているからだ。さんねんだぞ・さんねん! とどやしつけて、きょうは、おきた。これは、ほんとうは6ねんであり7ねんであるのだが、ゆめのなかでは、こうこうさんねんかんのことをいっていたようである。おきてまずさいしょにかんがえたことが、3ねんとは、いいまちがえた、ということなのだ。                                                                                                                  いずれにせよ、ぼくは、おしまいだ                                                                                                        いかりで、いっぱいだ                                                                      もはや、いしきがとうのく                                                                                                                                               どうにもならん(4)                             

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