下のひらがなの文の要約
親は、自分自身の心的な問題を、子供に押し付けることがある。
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わかんないじゃない
ところで、ぼくは、2、3にちくるしかったが、なんとか、もちこたえ た。いまは、まあ、はいだ。しかし、やまずみになっているしごとをみると、どうにも、じぶんにできるものか、どうかわからなくなる。
ぼくは、おもうのだが・・・・
たとえば、すうがくなんかで、ていぎがさいしょに、どしゃぶりあめの ようにふってきて、それで、ぜったいてきなものになっちゃうというのが、きにくわない。もっと、きにくわないのは、『ていぎだから』~~『おぼえ ろ!!』ってやりかたなんだ。なんてったって、『ていぎ』だからねぇ! ていぎ!!
さからいようがないわけだ。 このようにけいさんするといったら、このようにけいさんするときまっ ているわけで、なにもいまさら、おれのいけんをきこうってわけじゃないのは、わかって
$$$わけ
おれは、どうなるかわからない。わからないといえば、なんでもわからないし、だれでもわからないが、・・ただ、しかし、 ほんとうに、どうなるかわから ない。まったくもう、からだがぶんかいしそうだ。いしとからたが。あるいは、ふいしと、いしが。できれば、すばらしいものをつくりたいとおもう。ところ が、それが、ぷれっしゃーになる。ぼくは、じぶんでよんで、『まだ、できたな』とおもえるようなさくひんをつくりたくないのだ。 ちちおやなんていうのはよおーー
じぶんのもんだいをこどもになすりつけるだけなんだ。
これは、こっぴっどくなすりつける。
もちろん、ほんにんは、まったく、そのきなんて
なしにさ。
なしに、やってしまう。
やってやる、
ひつぜんてきにそうなるってことさ。
ぼくには、わからない、しかし、おやがじぶんのこど ものころからのもんだいで、いまだにしょうかしきれないもんだいをこどもになすりつけるっていうのは、まったくよくあることなんだ。ぼくは、『かてい』な るもののいみがあるとしたら、そこにあるんじゃないかとおもうぐらいだ。てみじかにいうと、おうけのちちごろし、こごろしは、それほどめずらしいことじゃ ない。そりゃ、おうさまとなると、おうけんがからみ、しょこうのおもわくがかかわり、せいりゃくけっこんがかかわりということで、つまり、けんりょくあら そいによって、それが、よりめにみえるかたちで、せんめいなかたちでひょうげんされることになるけど、こんぽんてきには、かわらないものをもっているとお もわれる。つまり、おうさまのいえは、げきじょうなのさ。けんりょくあらそいで、おーばーらっぷされ、つよくにおう、たいぷのしょうあっぷがはかられてい るだけで、きほんてきには、なんにもかわらない。ひとびとは、ほんとうに、こごろしやおやごろしをよろこんでいるんだ。これは、ほんとうにそうなんだ。ひ どいはなしだ・というが、こころのそこでは、きょうみしんしん、まったく、よろこんでいるんだ。いっしゅのかいかんをさそうといってもいい。もちろん、ふ かいだし、ふこうなはなしだし、ひどいはなしだけれども、それにしたって、もちろん、よろこんでいるんだ。ぼくには、それがわかる。それに、ぼくだって、 もちろん、よろこんでいるところがあるのさ。まあ、これは、どうでもいい。ただ、どうして、これほどやっかいなことになったか・ だ。 おそらく、こじん てきなふたんのできるけいざいがはったつしてからのことだろうとおもうけど、それにしても、これは、じんるいにとってふたんが・まさに、おもすぎる。たい ていは、そんなものにたえられないんだ。むかし、うえはしゃかいてきなもんだいで、こじんだけがうえるということがなかったそうなのだが、これは、だいじ なぽいんとだ。ぼくは、おもに、ふけんがはったつしたのは、しょくりょう・なんかをじぶんのせきにんでてにいれられるようになってからのことだとおもうん だ。とてもじゃないけど、そんなものは、こじんのうえにけいざいのふたんがかぶされなきゃ、はっせいしようにない。これも、どうでもいい。
ただ、ぼくのいいたいのは、やっぱり、じぶんのもんだいをなすりつけている・ということなんだ。これは、やっかいなことで、あきらかにいでんする。たとえ ば、つめたくそだてられたやつが、こんどはおやになるとできあいするようになる。あるいは、それのはんたい。ちちをついほうしたやつが、むすこについほう されることをおそれるんだ。それも、みんな、じぶんがついほうしたからで、とうのむすことは、ほんらいてきにかんけいはない。ところが、このいりょくは、 あきらかにいでんするものだから(ほんとうのいみのせいぶつてきないみの、いでんではなく、かんきょうてきに・ということだ。つまり、そのひとが、そうで あるようにそんざいしていることで、まったく、そのとおりの、あるいは・まったくそれとぎゃくの、えいきょうをそのままあたえてしまうということなんだ。 これは、きょういくほうしんとか、そういった、いしれべるのもんだいではない。いしではどうにもならないれべるのはなしだ。ちちおやがふまんにおもってい たことを、むすこがいいだす。わたしそういったれいをいくつもみてきた・とは、さるゆうめいなてつがくしゃがいったことばだが、(いちじいっくせいかくに というわけではないが、だいたいのいみはこういったことだとおもう。)これは、まったく、あたっている。かれがいったなかで、ゆいつあたっていることだ。
ところで、ぼくはけっかいのことについてはなした。このけっかいは、あくまのけっかいだ。これにとりつかれると、さんざんくるしんだあげく、それとおんな じようなことをほかのひとにしてしんでいくという、あくまのけっかいだ。もう、これにとりつかれたら、いてもたってもいられないんだ。しかし、これは、ひ とによって、ていどがちがう。ていどがちがったぶんだけすくわれるひともでてくる。
ぼくが、あくまのけっかいのつくりかたをおしえてしんぜよう。(そんなもん、おそわりたくもないだろうけど、まあ、きけよ。)この、あくまのけっかいとい うのは、かていのことだ。ぼくは、それをなんべんもいおうとして、けっきょく、ここまで、ひきのばしてきたわけだけど、まさしく、あくまのけっかいとうの は、かていなんだ。だから、かていのつくりかたじたいは、ひじょうにかんたんだから、だれでも、すごくかんたんにできる。
やりかたは、こうだ。・・『ぼくは、ちちおやは、じぶんのみかいけつのもんだいをこどもになすりつけている、』・・ といったが、もちろん、やっているとうのほんにんは、たいていのばあい、そんなじかくは、まったくない。 ・・・
ところで、にんげんはいしきてきにいとてきにやっていることなんて、たいしたことなくて、ほんとうに、にてもやいてもくえないのは、じぶんがしらずにやっ ていることなんだ。このてのかんじょうは、むかし、おおむかしに、こたいはっせいとしておおむかしに、すっかりすりこまれて、そのときは、ほんにんは、お こったたり、なんともいえないぐしゃぐしゃしたきもちになったかもしれないけど、いまはすくなくても、ひょうめんてきにはわすれてしまったということに、 きいんしているかんじょうだ。そこのほうにあるぶん、かたちがはっきりしないが、ちからとしては、ぼろくそに そりゃ、ほ んにんは、まったくやるきがないのよおー。まったく、やるきがない。ところが、ちゃーーんと、やってるんだ。いちぶのくるいもなく、ごくいちぶのくるいも なく、こまいところまで、ちゃんとこうかをおしはかったように、まったく、みごとになしとげているのさ。もちろん、こんなげいとうは、ほんにんにはできな いが、ちゃんと、かるまにまみれると、やってのけられるんだよなーー。ふしぎに、 ふしぎだが、まったく、くるいもなく、まったくやるいしもなく、ちゃ んと、やってのけている。 これは、ふしぎだが、・・・ まったく、ふしぎだ。・・ もはやしんぴといっていいね。
どうでもいい。 いっぱんろんでなく、かくろんにはいろうか。いっぱんろんできりぬけるのは、ひきょうだ。ひきょうだかどうだかしんないが、こんなもの は、いっぱんろんできりぬけられるものじゃないんだ。
おれは、やっぱりいいたくないんだな。 ぼくはやりたくないが、ここ のところ、あのことばっかりかんがえている。ここで、もう、みっかみばん、はらをたてつづけたわけだ。 あほだ!!
どうでもいい。 ただ、もう、ずっとかんがえつづけている。
[イワン・カラマーゾフがアリョーシャ・カラマーゾフに語る言葉から]--[主に幼児虐待について]
ほかのひとなら、そんなことをやるけはいをすこしでもみせたら、けん かになるか、そうでなかったら、やってらんない・といって、ぷいっ、とそっぽをむいてあるきだしてしまうのだ。だから、こんぽんてきに、それらをおしつけ るには、なすりつけるには、ほかにたよるべきものがないものでなければならない。これは、いしきされないにもかかわらず、かんぜんなじょうきょうをつくり だす。てみじかにいって、たとえあいてがどんなにしゃかいてきにこじんてきにけいざいてきによわいにんげんだろうと、これをなすりつけるには、あまりに も、つよすぎるのだ。さっきもいったように、あしをつかってさっさとにげてしまうからだ。あいては、どんなににげようとしても、にげられないものでなけれ ばならない。こんなじょうきょうがなりたつのは、じぶんのこどもいがいにありえない。
だから、じぶんのみかいけつのもんだいにたいするふまんのはけぐちは、ひつぜんてきに、ぜったいてきに、ぶじんのこどものうえにもとめられることになる。 ようするに、ひどくてのいったほうほうで、うっぷんばなしをするわけだが、これは、ぜったいにほんにんにとって、ここちよいものではない。ふつうなら、 うっぷんばなしをしたぶん、すとれすがなくなったきもちになるか、すくなくても、たしょう、すっきりしたきもちになるとおもうのだが、このてのこういでい くかぎり、ぜったいに、すっきりしたきもちになることはない。なんてったって、じぶんのもんだいのくりかえしをしているのだからな。だから、ぜったいに、 ほんにんは、うっぷんばなしでやっているとはおもえない。なんにもたのしいことはないからだ。それでも、ぜったいに、ありじごくにすいつけられるように、 それをやる。 じつにこうみょうなやりかたでなすりつけるのだ が、ほんにんは、まったくなすりつけたきもちなんてない。なすりつけるどころか、やっているほんにんが、やっているあいだに、まさにきぶんがわるくなって きて、むかついたきもになるのだ。しかし、むかついたきもちになっていながら、なぜむかついたきもちになっているのか、まったくわからないから、むかつい たきもちになったぶん、よけいにやぶれかぶれに、だんていてきに、じつにきっぱりと、そこのそこのきもちまで、なすりつけることになる。ことわっておく が、うっぷんばなしのためにやっているのだが、ぜったいに、うっぷんをはなしているというきもちにはなれない。うっぷんをはなすのだったら、きぶんがわる いにしろ、けっぽったりしたときはたしょうすかっとするものだが、このてのこういのばあいは、すこしもすっきりすることはない。むしろ、はんたいに、やっ ているあいだに、じぶんでもわからないまま、どんどんぷんぷんはらがたってきて、しまいには、じぶんでもなんでこんなにはらがたつかわからないというほ ど、むかついたきぶんになってしまうのだ。もちろん、さっきもいったように、そのきもちは、なすりつけたうえに、さらにこっぴっどくなすりつけることにい ちやくかうことになるのだが、とにかく、これがうっぷんばなしをしているのではないというちょっかんてきなりゆうになりうるのだ。ほんとうに、じぶんのも んだいをなすりつけながら、なすりつけているあいだに、ますますむかついたなんだかわからないきぶんになってくるらしい。 けっきょく、さんざん、なす りつけて、どっかにいってしまう。かちにげだ。いっておくけど、これとて、ほんとうに、うっぷんをはらしたという $$$わけお