40人学級について考えてた時のものですね。
別に30人学級でもいいんですけど、日本の学校制度において、学級というのはどういう意味を持つのかということを考えてた時のものです。今は、どうだか知らないけど、班活動や学級活動は、目に見えない規範を、押しつけます。学校というのは、実は目に見えない規範の押しつけ装置として機能するわけです。そして、規範の押しつけが普通に成り立っている場合は、規範に関する善悪も決まっています。つまり、常識的に言ってなにが正しいかのスタンダードが決まっていると言うことです。なにが正しいか、ということについて……無意識的なレベルでも……同意がなければ、規範として押しつけることができません。また、いちいち、押しつけるときに、なぜその規範を(その価値観に特有の規範を)押しつけて良いのかと言うことが問題になります。押しつけることができると言うことは、それを押しつけても良いという、一般的な同意があると見なすことができます。
(と、まあ、書こうとしたのですが、班活動ということばですら、一発で変換できなかったので、書く気をなくしてしまうわけです)。
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40人ユニティ
無機的な40人の集団をなんとか有機的で意志的な40人の集団にしようとする無茶な企みが行なわれてきた。しかし、これは、無理だから、やめたほうがよい。そもそも、そうとうに、高慢ではないだろうか。つまり、その40人というのは、いれかえ可能だから、基本的にいって、おのおの意味はない。(意味があるように錯覚するならば、それは、40人集団がその機構においてなりたっている時にのみ、体感できるものだろう。ところが、これは、やっぱり、基本的に無理がある。基本的に無理があるところで、それをやりとげようとするところが、唯一の統合へのエネルギーとなるのだが、それでは、目的と結果が一緒になっている。この手の集団は、上からの何らかの強い力がないかぎり存在しえない。つまり、目的は、自発的なものではなく、その機構の権限に限られるということである。 まあ、それはいいことにして、ともかく、)基本的におのおのの意味がないところで、有機的におのおのの意味をつくりだそうとするのだから、これは、無理だ。無理がかかるし、方向づけが強固に行なわれることになる。もちろん、方向づけに 『あいよ』 と迎合してしまうものは、負担がかからなくてよいが、ちょっとでも、それに疑問をいだくものには、たまらない組織となってくる。(なぜなら、脱退不可能なのだから。)したがって、それに息苦しさを感じる個人の上には、たまらないほどの圧力がかかるようになる。これが、登校拒否の原因だ。あるいは、管理教育の原因なのだ。だから、40人の集団を有機的で意志的な集団につくりあげようとするこころみはやめたほうがいい。(それは、本来的に無理だ。無理なことをやるから、圧力がかかる。そろそろ本当に、40人の集団をなんとか意志的で有機的な集団につくりあげようとする努力はやめたほうがいい。)
知識・技能・学問
・技能は、知識的技能を含めて、知識とは、別の形態で扱われるものである。技能の中には、芸術、言語、算術、体育などが含まれる。(計算までもが含まれるということに注意して欲しい。あとでふれる。)知識とは別の形態で扱わなければならない、というのは、これらの科目は、知識のように週4コマといったぐあいには扱えない、ということをいっているのである。知識なら、週4コマというかたちでカリキュラムに入れていいが、こと、技能に関するものである限り、週4コマという形でカリキュラムに入れてしまってはいけない。それらは、根本的にいって、週4時間では、養成できないものなのである。すなわち、毎日やらないと、なかなか効果があがらないものなのである。知識なら、週1コマでも、一定量の知識を教え込むことができる。しかし、技能の場合では、まったく、違ってくる。
ここで、たとえば、技能的な科目を知識的な科目として扱うことを考えてみよう。そうするとどうなるか。 そうすると、ただ『はかる』ということになってしまうのである。つまり、体育を教えながら、体育の力を養成することなしに、ただ単に、今の体力をはかっているというぐあいになってしまうのである。これはまったく当り前のことなのだ。たとえば、50m走をはかったとして、週に一二回という今のやりかたでは、50m走の力を養成できるわけではないから、今ある50m走の力をはかることだけで終始してしまうのである。
芸術にしてもこれとまったく同様で、芸術の力を養成しているのではなく、今ある芸術の力をはかることに終始してしまうのである。これはまったく当り前のことなのだ。たとえば、週に一回絵を描くとして、その人は今の力で絵をかいているわけだから、絵を力が養成されるわけではない。そして、週に一回一学期をかけて一枚の絵を描かせて、それを評価して、『おしまい』、ということになる。これでは、絵の力を養成しているのではなくて、絵をかかせてみて、今ある絵の力をはかっているというだけのことなのだ。したがって、養成しているのではなく、ただはかっているだけ、という結果になる。
##(それも、正確にはかれれば、それでよいのだが、正確には、はかれないという性質をもっている。50m走ならば、正確にはかれるだろうが、体育の実技となると、正確かどうかは、わからない。)
##(ところで、養成しているのではなく、ただはかっているだけ、という状態を今のカリキュラムのなかで、解決しようと思っても、それは、無理だ。だから、カリキュラムの根本的な考え方が変わらなくてはならない。カリキュラムに対する根本的な考えを変えた後に、この問題に対して、対処していかなければならない。)
##(それで、僕は一応どのように考えるかというと、やっぱり、これは、『知識』・なるものと、『技能』・というものを、分けて考えなければならないという結論に至る。『技能』は、毎日やらないと意味のないものだから、毎日できるようにしなければならない。そうなると、正規の授業からはずさなければならないことになる。)
人間性の教育はやめろ!!
学校というのは、『知識』・をあつかうものなのだ。ただ純粋に知識のみをあつかう。なぜならば、『知識』・しかあつかえないからなのである。人権論の人(あるいは、学校なるものに特別のおもいいれがすでにあるひとにしてみれば)『学校は、勉強もおしえるところだが、それいじょうに、人間のつきあいとか、ふれあいとか、協力してなにかをやるとか、もっと人間にとって大事なことをおしえるところだ。』となってしまう。さらに、『だから、塾と学校は、違う。塾は勉強ばっかりをあつかっていて、もっとたいせつな部分をまったくあつかっていない。』ということになってしまう。しかし、この人たちのいうことのどこが正しいだろうか。学校というのは、あきらかに、『知識』・に対応してあらわれた。学校というのは、産業社会に対する用意をかためるために、国がつくったものなのだ。つまり、国家的行事なのだ。国家的行事が導入されるまえには、おのおのが勝手につきあいをしていたわけが、それで人間性がこわれるということはなかったのである。人間的なつきあいをある特定の機関に依存させなければならかなった、あるいは、そのような意識を発達させなければならなかったということ自体が、人間にとって異常なことなのである。そもそも、『人間のつきあい』・なるものが、学校の中におしこめられたということが、人間にとって、尋常ならざることなのである。学校の中に、人間としてのつきあいがあるという価値観がうまれるという状態は、あきらかに、人間の歴史にとって異常な事態なのである。(##学校制度が導入された当時も、まだ、漁師の子は漁師の姿を見て育っていた。かならずしも、さいしょっから、学校制度が生活的な意味において根づいていた訳ではないのである。)(###これについては、資料が欲しい。もうちっと、くわしい資料がほしい。)学校が導入された当初も、学校なるものが人間のつきあいにおいて、大切な地位をしめた、あるいは、しめたように錯覚してしまったという事態は、長く見積もっても、150年来のことで、それに先立つ25万年ぐらいは、学校のなかにつきあいをもとめなければならなかったというものではないのである。)
がっこうがなくてもにんげんせいがそこなわれるということはないのである。ところが、がっこうだいすきにんげんにしてみると、がっこう・がないと、なにかにんげんとしてたいせつものが・そただない、とおもってしまうのである。これは、じゅうしょうだ。がっこうにまつわるぎろんは、かんりきょういくと、にんげんせいのきょういくしかないが、そうほうに、ばかなのである。まあ、かんりきょういくについてはいうひつようがないのだろう。かれらも、かれらなりに、「にんげんのきょういく」とかはいいやがるんだ。もんだいなのは、それにたいこうするはずの、いわば、こっかきょういくがわではないものたちのいうことが、これまた「にんげんせいのきょういく」なのだ。ぼくは、「にんげんせい」なんてきょういくしてほしくないし、だいいち、いじってほしくもないのである。どうやって、いじるのだ、 それは、すでに、あほだ! きょういくしょかんけいというのは、がっこううんえいのしかた・たのしいじゅぎょうのつくりかた・けいのものと、がっこうひはんがわのけいのものがある。ところが、じんけんてきなたちばから、がっこうをひはんしているひとたちの、がっこうにたいするおもいいれの、なんとひどいことよ。 おもいいれといったが、ほとんどしんこうなのだ。しんこうにてらしあわせて、いまのがっこうきょういくはけしからん! とくる。そりゃ、けしからんのだ。だれにだってもんだいてんぐらいわかる。しかし、かのじょらのほとんとが、じぶんではいしきしていないが、きょうれつながっこうきょうのしんじゃなのだ。これでは、かのじょらからでてくるりろんが、ほとんどすべて、「にんげんとのふれあい」「じゆうでのびのびがっきゅう」にいってしまうのは、あたりまえのことなのだ。ところが、そんなことでは、ぜったいにちへいはみられない。
なんで、こんなにももんだいがふんしゅつしているときに、そんなにのんびりしたことをいっていられるのか、しんじられない。のんびりしたことで、わるけりゃ、あほなことなんだが、 そりゃ、たしかに、じゅけんせいどはもんだいだろう・ そりゃ、たしかにへんさちわぎりはもんだいだろう、 そりゃ、たしかに、つめこみきょういくはもんだいだろう。 ところが、「にんげんとのふれあい」なんていっているうちは、そのどれにもたいしょできない。
おお、っ、そうだ!! たとえば、『たとえば、先生というのは、先生をやっているから先生なんで、学校の裏付けがなければ、先生ではないんだ。たとえば、そうした場合、別に街頭に立って、我々が授業をしてもだれもきいてくれませんからねぇー。学校なる組織体に含まれて、はじめて、先生は先生なんですから』・という意見がある。。 これは、
まったく、したり。まったく、そのとうりだ。しかし、なかには、街頭に立って、講義して、生徒を獲得してしまうやつもいる。これが、教授とよばれるものなのではないだろうか。要するに、学問のばあい、通常の先生とは、格がちがうのである。つまり、個人性ということにかけて、意味あいがちがうのである。ここらへんのことをかんがえて、学問とか授業というものをかんがえなければならない。じつは、入門と、学問の差は、ここなのだ。通常、かんがえかたをいれるというばあいには、入門としての要素があるとおもえる。この入門というのは、つねに知識と対立していながら、知識に対して、依存する状態にある。つまり、知識になんらかの人間味をつけようとしたばあい、それは、知識から入門になるのである。これがふつうにいう、『おなじことをおしえるにしろ、教師によってだいぶ違う』と表現される内容なのである。通常、(親の年令で)学校で育ってきたものは、塾流の知識オンリーに違和感を感じる。学校の方がより人間的なのだという。学校の先生の方がより人間的だという。これらの意見は、わからないではない。そこにどんな意味がこめられているか、わからないではない。いっていることは、わかるのだ。しかし、やっぱり、それは、組織というものをかんがえあわせなければならないのである。組織というものを考えあわせたばあいには、学校で教えることというのは、『個人の意見が反映してはならないもの』・になるに決まっているのだ。ひとは、これを中立に対する配慮だとおもうかもしれなが、じつは、中立であろうと、中立でなかろうと、組織的にものをあつかおうとするばあいには、こうなってしまうのである。つまり、学校の授業の画一性は、『中立』のためにあるのではなく、組織的に機構的にどうしても、一つの形にならざるをえないということをあらわしているのである。その一つのことが、じっさいに、『中立』であるかないかは、問題ではないのである。それに、一つのことが『中立』になるということは、ない、に決まっているじゃないか。ものごとというのは、中心があったり、両側があったりする(直線的な)ものではないのだ。さまざまな次元が、さまざまな次元に交錯しているのであって、中立とか中立でないとかを一元的に導き出せるわけではないのだ。『中立』・であろうと、偏るに決まっている。ところで、この『中立』・にかんすることは、ちょっと横においておこう。・・いろいろあるのだが、ここではあつかわない。しかし、基本的にジレンマにあるということだけ、記憶にとめておこう。(###機構と、機構のおしえるものの内容には、基本的にあいいれない性格がやどっている。)(ほんとうに、がっこうのじゅぎょうのかくいつせいやとういつせいは、ちゅうりつにたいするはいりょではなくて、そしきがそうだからそのようになる・といったものなのだ。じどうてきにそのようになってしまうのだ。これらのことに、ためにもくそもない。じどうてきにいまのそしきをいじするのだったら、そうなるのだ。いまのそしきのなかで、これはちゅうりつではない・といってもしかたがないじゃないか。たしかに、きょうかしょはかたよっている。かたよっているというよりも、『あほ』だ。しかし、きょうかしょのもんだいは、ただたんにこっかよりだとか、そういったものではないのである。それだったらそれで、がっこうでごねることはないじゃないか。
ますめでぃあをかいさずに、じょうほうがいききしてしまうせかいについて。これは、だいぶやっかいなもんだいなのだ。これは、じゅうようなもんだいなのだ。ぼくにはこのじゅうだいさがわかる。ちっと、これが、じっさにはなにをいみするかについてかんがえなければならない。
・ます・はしぇあをだいぶくわれて、おちつくだろう。 ・ます・とみに・のちがいがなくなるだろう。 ・ます・とぱ・のちがいがなくなるだろう。 そして、くりかえすが、ます・はいっていのしぇあをもっておちつく。だいたい、ぜんじょうほうりょうの3、4わりといったところだろう。 ・学校のようなます・はこわれる。 ・こじんのかんけいがもっとしんみつになる。 すなわち、ちえんけつえんとはかんけいなしに、そうごにかんけいをむすぶことができる。 そのいっぽうで、いままでとはちがったいみでの、ちえんがふっかつするだろう。 じょうほうがひらかれてしまうので、だれもがぎょうせいにくちをだせるようになる。 じょうほうがひらかれてしまうので、だれもががくもんにくちをだせるようになる。 これは、まったくしょめんのじょうほうとはちがうのだ。いままでの、はっぴょうするかたちでのじょうほうこうかいとはまったくちがってれべるでのじょうほうこうかいがあたえるえいきょうである。いままで、たしかに、じょうほうはこうかいされてきた。ところが、それはせいかつてきなにんげんてきなものではなかった。すなわち、しょめんによるととのったかたちでのじょうほうこうかいであるわけだが、これが、みききできるものになとなると、まったくようそうがちがってくる。 つまり、ばなきゅらーになれるわけだ、 そうでなけりゃ、ならないな ((ははっ、おもしろい )) ととのったというのは、かならずしも、ととのっているわけではないのである。ほんもののせいかつてきなじょうほうにちかずくにつれ、ととのわなくなってくる。(ぼくはかねがね、せつめいぶんはせつめいてきか・ということについてかんがえてきた。せつめいぶんは、かんがえをせつめいするのに、ほんとうにてきしたふぉーむだろうか。それは、ぶんかてきなじかんてきなぎまんによるものではないだろうか。 とおもってきたのである。さいきんとくにそうおもっている。このてんについてはかがくしかんしからのあぷろーちもかのうなのであるが、なんせ、それについては、ひとがやっているけんきゅうなので、ぼくはくりかえしをさけよう。このことにきょうみのあるひとは、なかやましげるの・やむ・のをおのおのかってによんでみよう。 きょうしのきゅうりょうなどは、ていがくねんにたいしては、 ゆうしゅうなきょうしをさいようすることは、むりである。きょうしにそんなゆうしゅうさなどいらないのである。それらは、かみではかれるものでもないし、けんしゅうをしてもいみはないのである。きゅうりょうだのさていだのでごちゃごちゃもめているようだが、これにかんしてはひどくかんたんなかいけつほうがある。きょうしのきゅうりょうにかんしては、したのほうはくもんのあるばいとのせんせいにたいするちんぎんたいけいを、うえのほうは、よびこうのねんぼうせいをどうにゅうすればいい。いままで、ひとりのせんせいにたよりすぎてきたのである。しょえないものをしょいこませすぎた。また、ひとがなにかをおしえてせいけいをたてるというのは、ひどくこんなんなことなのである。これは、ふくぎょうにしてもらわないとこまる。また、ひとりに40にんのこどもをあずけることは、どうかんがえても、むちゃだ。15にんにひとりなら、それほど、すぐれていないせんせいでも、うまくこどもをおしえられるだろう。そうなると、いまのちんぎんたいけいで、にんずうをふやすことはできない。ではどうするかというと、しゅふだののあるばいとぱわーをどうにゅうするしかない。そもそも、これは、じんるいてきにみたときのはなしだけど、ひとにものをおしえてせいけいをたてる・というのは、だいぶあとのほうになってできてきたせいどなのである。それをこっかがやしなうというのも、そうとうにあとのほうでできてきたしすてむであり、かんがえなのである。いまげんざい、どうもこのしすてむがうまくいかなくなっているのではないかとおもえる。だから、きょういくなるものをこっかのかんりかからときはなして、ばなきゆらーなものにしなければならいのだが、そのためにはちいきのちからをどうにゅうしなければならないのである。これはこっか・からみた、ちほう、ちいき・といういみではなく、じぶんからみたばあいのちいき・であり、げんざいのようにそれが『とち』にゆらいしているものではない。すなわち、とちにもゆらいしているが、『これはぶつりてきようそだから)、にんげんの『かんがえにゆらいしたものになる。ところで『いまげんざい、このしすてむがうまくいかなくなっているのではないか』だが、これはほんとうに、うまくいかなくなっているのである。 ちしきというのは、ちしきだから、だれもがおしえられるようになったものなのである。すなわち、ますめでぁ、きょういくというかくいつてきますめでぃあにのにるは、どうしても、ちしきにならねばならなかった。すなわち、いきたちしき・などないのである。ちしきというのは、しんだ・からきょういくというめ・にのるようになったのである。(きょういくがめ・であるということにたいして、こんぽんてきにけんおかんをおぼえるひとは、め・というたんごをぬかてよんでもいい。これはちょっとせつめいがいるかもしれない。いずれにせよたいせつなのは、)ちしきというのは、ふへんかできるものだから、ちしき・なのだ。ということだ。ふへんかできるということは、だれがおしえてもかわらないし、
いつだっけかなー。 くみたいそうのときに、たいくさいだかうんどうかいの・・おそらく、うんどうかいのときだろう。うんどうかいのくみたいそうのれんしゅうのときに・・ あいつら、あんだけ、せんぱいとこうはいのくべつをつけといて、かきゅうせいといっしょにくませやがって・・ それも、ぼくらがせがちいさいから、あまりだからそうなっちゃったんだぜ。 ふだんなら、せのちいさいじゅんにならぶのに、そのときは、みせものだから、せのおおきいやつらがまえのほうにいたほうがかっこうがいいだろうというくだらないはんだんで、せのおおきいじゅんにならばされて、
ぼくらはせがちっこかったから、にんずうがあまちっまって、・、
それで、こうはいとくむはめになった。
べつに、そんなのどうでもいいけどよーー。
なんだか、むかつくんだよ。だって、ほんとうに、せのたかいやつらをまえにだしたのは、みてくれがいいからだけなんだぜ。それに、ほんとうに、あんだけ・! せんぱいとこうはいのくべつをつけておいて、ただがみてくれだけで、いっしょにしてしまうのだからなー。 そんでだ、ときどきまわってきて、『こうはいのめんどうみろよー!』『せんぱいのいうこときけよーー!』だとかいいやがるんだ。
どうして、おんなじことやって、『めんどうみる』もくそもあるんだ。おんなじ、くみたいそうをやって、(ぴらみっどつくって)いっしょにくずれるのに、『めんどうみるもくそもあるもんか!! あいつら、まわってきて、そんなこというの、みてくれのいいようにせのたかいやつらをまえにやって、はすうであまりのやつらを、ちょこちょこっと、うしろのほうであわせちゃったっていうことに、なんかうしろめたいものをかんじてたからだぜ。 どうせやるならやるで、そんなちょうしでまわってくんなよーー、ほんとうに、くだらない。 おりゃ、こだいちゅうごくしそうにそうとうこだわってきたけど、かんぶんとなると、だめだ。かんぶんとなるといただけない。 だいたい、れてんだのかえりぶんのよみかたをおぼえなきゃいけないというのが、やなんだ。たいどがまちがっている。えいごの、にほんごよみとおなじように、ちゅうごくごのわぶんよみというのは、こんぽんからしてたいどがまちがっている。さらに、たいどがまちがっているのは、『よめりゃいい』というようには、ぜったいにかんがえてくれないところだ。『よめりゃいいじゃないか』というきになる。ところが、にほんのばあいは、かえりてんをつかってよめなきゃいけない。ようは、かんぶんというなかにこめられているやりかたで、おぼえなければならないのだ。そして、じゅんすいにおぼえていることをはんだんしようとする。つまり、てすとになるわけだが、そこでは、かんぶんがよめるとかいみがわかるなどはもんだいではなく、かきくだしぶんがかけるか、れてんがつけられるか・がもんだいになる。じっさいには、それができないと、てんすうをうしなうだろう。けっか、かんぶんができないということになるだろう。 ためしたいのは、ならったないよう・であって、ならったないようではない・ようなやりかたではだめなのだ。 ここらへんのことがことこまかにきまっていて、まったくゆうずうがきかない。ほんとうに、さいごのさいごまでそのちょうしなのだ。さいぶのさいぶまでそのちょうしだ。 ところで、そのちょうしというのは、わがあいこうするちゅうごくしそうには、ない。 どうやって、そんなちいさいことをいってそうしをよむのだ。そんなことをいってたら、そうしなんてえいえんにりかいできないし、すきにもなれないだろう。 ようは、そんなことじゃない・ということを、そんなふうなやりかたで、やっているのだ。それも、いったんそうときまった、もう、ぜがひでも、ないようとやりかたがあってないにもかかわらず、なにがなんだろうと、そのやりかたで、ごりおしする。 それで、『がくもんだ』『ひはんすることがたいせつだ』といいやがる。『しこうりょくをやしなおう』ともいう、 あほだ。 こりゃ、あほだぜ! こんなあほなれんちゅう、みたことがない。 もっとも、ぼくは、あほのなかのばかだが、
いってみりゃ、こぶんなんて、まったくやるひつようがない。まずだいいちに、ぼくがこぶんはきらいだ。それだけで、やらないりゆうはじゅうぶんにある。だって、こぶんにかいてあることなんて、あほなんだもん。 こりゃ、あほだ。 どのみちよーろっぱじんがらてんごやるのをみて、それにあたるものをなんとかせにゃ・あかんなということで、こぶんとかんぶんがつくられたとおもうが、こぶんは、らてんごじゃないのである。こりゃ、らてんごといえば、きょうつうごだぜ、それも、がくもんのきょうつうごだ。 ところが、にほんのこてんのばあい、きょうつうごだったためしはない。 ・だから、・っといっちゃなんだが、がくもんてきなちいがおちる。ぶんがくてきなちいがおちる。はなしをよんでいても、ちっとも・おもしろくないのだ。おそらく、でまわっているまんがのほうがずっと、ぶんがくてきでためになるものだとおもう。これは、まじでいっているのであって、じょうだんでいっていることではない。ちっとも、ぶんがくてきじゃないし、しそうてきでもない。よんでみてたのしいかというと、たのしいわけでもない。ひどくくだらないはなしが、ごちゃごちゃとつづくだけで、ばかなおんなのこのにっきをよんでるほうがずっとおもしろい。だって、ほんとうに、ばか、なんだもん。(せぶんてぃーんをよんでいるほうがずっとましだ。よんだことはないが、いちどだけ、りょかんにおいてあったのをみたときがある。なんでりょかんにおいてあったのかしらないが、ともかく、そのときにみた。)ひとによっちゃ、こぶんのうつくしさ、とかみやびとかいいやがるが、それは、それがすきなひとたちだけでよんでいればいいんだ。ぶんがくてきなかちもしそうてきなかちもないものを、えいえんとよまされつづけるほうのきぶんにもなってほしい。ともかく、くだらねぇ。・ー。とくにがっこうであつかうのがきにくわない。まくらのそうしなんてばかだし、つれつれぐさなんて、あほだし、げんじものがたりなんて、どーかんがえてもよまなくていいものだし、(よみたくもない)あとは、おおかがみとか、ますかがみとか、くっだらない、どうでもいいたわごとがつづいて、あとは、へいけものがたりか、 ありゃ、くだらん、だいたい、ぼくは、にほんしがきらいだ。へどがでる。しょうがっこうからくりかえしやっているにほんしがあまりにもばかだったものだから、にほんしときくとじいましんがでるくらいだ。だから、きょうみのないやつがたくさんでてくるはなしはきらいだ。だいたい、おおかがみかなんかで、ふじわらしのことをやっていたんだが、こりゃ、あほだ。すけーるがちっちゃい。からふうに、おおとのがどんなにすごいじんぶつかかいたくだりなんだけど、くそくだらないの。ほんとうに。すけーるがちっゃいんだよなーー。そこいくと、ちゅうごくしそうはすけーるがでっかい。かぜがびゅーびゅーながれているかんじがする。ぼくは、しゅんじゅうせんごくじだいがすきだ。それから、しんがあって、しんがくずれてからかんができるまでがすきで、かんができてしまってからは、あんまりきょうみがない。しそうにしても、こだいちゅうごくしそう、がすきなんで、きげんぜん2せいきになるとおもしろくなくなる。
それでだ、ふじわらみちたかだのみちざねだのさちどの(なんだかわかんないこもの)のがすごろくをやっているとこなんて、ちっとも、よみたくないわけだ。それになんか、くそしみったれている。こぶんでおもしろいのは、ひらがげんないのほうひろんだけだ。(あとは、こじきなんかはげんだいごやくでよみたいとおもう。)とりかえばやものがたり、はきかいがあったら、まんがのかわりに、やくでよんでみようかとおもっている。ほうひろんなんて、ぜったいにてすとにでないだろうからなーー。
でっだ、ようはおれがいいたいのは、もっとじゅうじつしたこぶんきょういくを・なんてきょういくがくしゃかちゅうがくのせんせいがいっているあいだに、くそくだらないことで、じかんをつぶしているひとたちがいるっていうことだ。にほんのきょういくというのは、ひまがあれば「ひとのきもちになってかんがえろ」ということいっているのだから、こぶんをやりたくないひとのきもちもちっとはかんがえてほしい。みやびやかなこぶんのせかいは・いい。 あんたがおもっているぶんには、、 けど、ひとにおしつけることはないだろうにーー。じぶんがいっくらすきだって。きょういくのひつようせいをかんじていたって。こぶんでえられることっていったら、なんにもないんだ。それは、さっきいったように、こぶんがべつに、がくもんてきにひつようなものでもきょうつうごでもなんでもないからだ。こぶんをやるのだとしたら、しゅみ・でやっているんだ。こっかがやるにしろ、しゅみ・でやっているんだ。めいかくなりゆうなどつけられるはずがないだろう。ひつようせいも、せつめいできない。
じゃ、なんで、こぶんをやるかというと、これは、でんとうではない。あほだから、しゅうかんがぬけないだけだ。じゅんすいにまっとうに、かんがえたことなんて、ないんだ。だから、へいきでいられる。へいきでしゅみをおしつけておきながら、『こぶんきょういくのひつようせい』なんてことをいっていられる。これらは、きほんてきにあほだからで、ものごとをなにひとつまともにはかんがえたことがないから、いえることなんだ。
さいしょにきめちゃって、それがないようをうしなっても、ひがいがあらわれても、けいがいかして、かたちだけはのこるというやつだ。にんげんというのは、なかなかじぶんのこうどうようしきをかえられない。つまり、りゆうはないが、こわすのがめんどうだからやっている・にすぎない。しかも、それだけだったらよいのだけど、(つまり、じっさいにひがいがないことなら、それでよいのだけれど、)じっさいには、ひがいがあらわれている。ぼくが、そうかんじる。ひがいがあるのに、やりつづけるというのは、あほだ。たしかににんげんには、かこのこうどうようしきで、いみもなくやっていることがある。それがせいしんをあんていさせるといういみがあったらいい。めいかくなりゅうがないようにみえるものにも、りゆうがかくされていることがある。だから、ふるいものがみんなだめだなんてことはいわない。ただ、じっさいにひがいをうむようになったら、べつだろう。そして、じっさいに、ひがいをうんでいる。ぼくはたまらなくやなのに、こぶんのじゅぎょうにつきあわなきゃいけないし、しんりがくをべんきょうしたいのに、それとはまったくかんけいのないこぶんというかもくのてすとでふりわけにかかることになる。これは、しんりがくからみれば、つみだ。それとも、こぶんのせいせきとしんりがくのべんきょうにはなにかそうかんかんけいがあるとでもいうのだろうか。もともと、こうこうのべんきょうせいせきとだいがくのせいせきには、ふのそうかんかんけいがあるし、もし、そうかんかんけいがあるとしたら、それは、だいがくのべんきょうが、がくもんではないからだ。つまり、だいがくでもあいかわらず、おんなじことをやっているから、そうなる。(ところで、ぼくは、べんきょうはがくもんのきそではなく、むしろはんたいぶつだといった。ここんところをよくおぼえておいてほしい。)(というせっきょくてきなみえないいみがあるのだったら ところで、こぶんだが、これはあきらかにまずい。もし、にほんぶんかのしょうかいだったら、やくしたものをよめばいいのだし、けんきゅうようだったら、くずしたもじもちゃんとよめるようにしてやるべきだ。にほんぶんかのしょうかいのためのきょうようだったら、こりゃ、にほんにすむものとしてたしょうはしっていなければならないこともあるだろうから、やってもいい。しかし、きょうようとしてやるいじょう、しょうかいとしてやるいじょう、やくをつかって、こういうはなしがある・というところでやめておくべきだ。さらに、こういうはなしがあるということをしょうかいするのだったら、しょうかいしたないようのてすとはしなくていい。だいたい、しょうかいで、てすとするとは、なにごとだ。それに、やくがある・のだから、なにをてすとするのだということだ。もんだいは、こぶんのじゅぎょうにつかわれる、こぶんぶんぽう、こぶんたんご、こぶんじょうしきといったものにある。これは、ものすごくちゅうとはんぱだ。こぶんぶんぽうやこぶんたんごをつかうひとはいないのだ。こぶんのけんきゅうしゃをのぞいては。 つまり、これはしんてきえねるぎーをまったむししたきょうかなのだ。けんきゅうしゃのばあいにはまだやくされていないぶんしょうをよまなければならないことになるだろう。そういったばあいには、たしかに、こぶんぶんぽうやこぶんたんご、こぶんじょうしきをみにつけておいたほうがいい。それは、ひつようだろう。しかし、いったいなんにんのひとが、けんきゅうしゃになるのだ。ぼくは、すくなくても、まいにちこぶんをよんでいるおとなというのにあったことがない。あたりをみわたしたかぎり、それはしゃかいにでてまったくふひつようなものなのである。それを、ぜんぶのひとにひっしゅうでおしえるということはなにごとだろう。さらに、しけんかもくになるのだ。しけんかもくになるいじょうは、なんらかのひつようせいがなけりゃ、だめだ。がくもんにかんするひつようせいがなけりゃだめだ。ところが、そんなものは、これっぽっちもない。たいていは、しればしるほどへんきょうになるのだ。
それができるということをひつようとしたばあいに、そのひとがこぶんをよめるようにするひつようがあるわけで、ひつようせいがないのに、よみかただけおしえるっていうのは、ばかなはなしだ。これはほんとうにひとのこころのうごきをむししている。 それで、たいていのひとは、ひつようないんだからなーー。