さむい。
きょう、ともだちからでんわがあった。やなかんじはしなかった。かれもつらいようだ。しかし、ぼくが、かけるとなるとべつだ。(かけるというのは、つまり、でる・ということだ。)ぼくは、どうしても、でなきゃならない。そうなると、ぼくのよわいぶぶん・だいそれたことときにかけるぶぶんのかなごとにふれることなるから、だめだ。
ところで、さっき、うめきごえのようなものがきこえた。れいについてはなしあったからだろうか。ぼくは、だいぶまえからかんがえているのだが、こんなことは、はじめてだ。さいしょ、ひゅーひゅーとないて、(ぼくは、くるまのおとかとおもったが、ちがうのだ。)それから、『くるしいよー。いたいよーーー。』というのだ。それが、・・いままで、きいたことのないようなこえで、ほんとうに、じからわきでるというか、かえるがなくような・というか、つぶされたかえるがなくようなきみょうきてれつなこえなのだ。これは、なんとも、けいようしがたいが、ほんとうに、じからわきでるようなきみょうきてれつなこえで、ぼくは、いまのいままで、いちどもきいたことがなかった。にんげんというのは、おしつぶされると、あんなにも、きみょうきてれつなこえをだすのかと、おもうような、ほんとうに、みょうなおと(ね)だった。ぼくが、おまえがわるいんだ、じょうぶつしろ」というと、きえた。こんなことは、はじめてだった。こんりんざいでてほしくないが、ぼくにはちがったたいぷのれいてきけいけんがある。ところで、はなしはぜんごするが、ぼくは、じょうぶつしろとはいってないようなきがする。きえろ」といったのだ。おまえがわるい」とはいったようなきがする。じょうぶつしろといったのは、そのときではない。そのときは、なんだかおそろしくて、そんなながいことばはおもいうかばなかったのだ。いまはおもわないが、じょ・う・ぶ・つ・とは、ながいことばのようなきがした。だいたい、じょうぶつできないから、さまよいあるいているわけだから・・。しかし、どうしたものだろう。ほんとうに、にんげんというのは、なんなんだろう。なんか、つらいなーーー』とはおもうが、つきまとわれるのが、やだから、おいはらっておいた。あまえているのだ。そいつは、うかつにきいてやるたいどをとると、どこまでもつきまとうなようなかんじがした。ところでいっておくが、どんなに、はなしても、うめいても、ぜったいに、じょうぶつできないのだ。ぐちやおんねんというのは、きけばきくぶんだけひどくなっていくのだ。そして、きくことでは、ぜったいにすくわれない。はなすことでは、ぜったいに、すくわれない。はなすことですくわれるぐらいだったら、もう、ぜったいにいきりょう(りょうに)なるまえに、ぜったいに、かたがついていることなのだ。それで、かたがつかないから、さまよいあるいているわけで、それは、ほんにんがなっとくするしかない。・ それができないから、つらいわけだが、 ぼくは、きいてやんない。きいてやっても、だめだ、そいつは、じょうぶつしない。 じょうぶつするかどうかは、ほんとうに、ほんにんがなんらかのかたちで、なっとくするしかない。なっとくしてもらういがい、ほんとうに、ほうほうがないわけで、うかつにきいてはならないのだ。ぐちをたれたところで、ぜったいに、じょうぶつしないだろうから。
しかし、なんとも、にんげんの、くるしいことよのおーー。なんで、こうなってしまうんだろう。ほんとうに、すくわれない。
ともだちとのはなしのなかでも、なんかいかでてきたが、(なんかともだちとかかわりがあるんだろうか)・・わからない。 わからないが・・・、のろわれたひとたちだ。ぼくも、とみにさいきん、うらんでいるのだ。むかしのことを、むしかえして もっとも、ぼくにしてみれば、む・か・し・ のことなんかじゃ、ぜったいにない。いまげんざいのことなんだ。ところが、もう、10ねんはたつ。ふしぎなものだ。やってるやつは、ぜんぜんきずかないか、わすれてしまうが、やられたやつは、ほんとうに、いつまでもおぼえている。それで、こんなふうにいうと、なんだか、だらしがないようなきがして、ほんとうにやなんだが、にんげんは、じぶつにたいして、それほどうまくたいしょできるわけではないんだ。それは、たいしょできるはんいでしかたいしょできない。それで、たいしょ・で・き・な・い、じょうたいだったから、このよにおよんで、うらんでいるわけで、 そしたら、ぜったい、ぜったい・わすれるわけにはいかないじゃないか。 こんなことをかんがえていたおりもおり、ともだちから、でんわがかかってきた。ぼくは、ともだちからだとはわからなかったが、 おおやさんがあがってくるとき、(おれじゃないか) というきがした。きがしたどころか、(だれかかられんらくがある。それも、おれのだいぶかかわっているひとから)というきが、おきざまにしていたのだ。おきたのは、おおやさんがあがってくるかいだんのおとでおきたのだ。ぼくは、それまで、ねていた。どうにも、すっきりしていないきぶんだったので、(ぼくには、よくあることなのだが)。・・・なんだろう?)とおもっていたのだが。まあ、おどろいたことに、ともだちだった。 それで、まあ、いまは、たしょうこわいきもちで、うっている。しかし、なんだなーーほんとうに、なんなんだろう。 しかし、ほんとうーーに、にんげんってなんだろう。けっきょく、だれも、ほんとうには、なっとくがいかないんじゃないかというきがするんだが・・、 そういうことをおもっていると、さきっのようなちんきゃくがしょうらいしてしまうのかもしれないが、、 ともかく、 にどと、あらわれないでほしい。 おれは、にんげんだけでももてあましているのだ。
しかし、ほんとうに、にんげんってなんだろうなーー。 ぼくは、ものをおもうとき、まったくべつのしーんがおもいうかぶことがあるのだが、いまは、しょうろくのころのきおくのようなもの しーん なんだが 、それが、おもいうかんでいる。べつに、じゃきがあるものではない。 ともかく、あのころから、ふあんにつつまれていたわけで、あいかわらず、つつまれつづけるだろう。あとでおもえば、たいしたことがないこと、もうわすれてしまったこと・でも、そのときは、そのときでたいへんなんだから。たいへんというか、なんとも、つつまれきっているわけだから。 なんとも、にんげんというのは、ほんとうに、こ どもっときから、たいへんだ。もんだいだ。 ほんとうに、なんでいきてんだろう。こどもだっておもう。こどもだっておもうどころか、たいへんに、まったくかわらないていどには、おもうだろう。ぼくには、このてんでおとなとこどものさべつをみとめない。さべというよりも、くべつするこころなんだが。 ともかく、ともだちからのでんわはあまりないほうがいいな。どうしても、どうどうめぐりになってしまう。けっきょく、そこにいかざるをえないわけだから。よもやまばなしをしててもさあ。 けっきょく、ともだちとの『よもやまばなし』には、どうも、おれはたえられないみたいだから、けっきょく、そこに、いくのだが。これは、もんだいだ。しかし、こんかいは、けっこうさっぱりと、しかし、まじめにそのもんだいにふれたわけで、これは、いままでになかったことだ。いままで、は、どろどろにそのもんだいにふれていた。^^おとなになったんだねーー。^^ふたりとも。 しかし、さっきは、こわいおもいをした。さっきなんていったとおもう。そのゆうれいが。^そのゆうれいが『こわい』っていったんだぜぇ。『こ・わ・い』って。『こわい』っていいのこして、きえたんだ。こわ・い、のは、こっちなんだよーー。ってさけびたくなっちまった。こわい・はないだろ、こわい、は。 こわいのは、こっちなんだ。 ^^きっと、しぬのが、やだったんだろうなあーーー。どうじょうしているわけではないけど、^^けど、それは、ほんとうに、『お・ま・え』がわるいんだから。 なんとも、わけがわからない。ともかく、さむいのはこりごりだ。さむいのに、まどをあけてねたのがわるかったのかもしれない。まどがあいていたぶん、はいりやすかったということはないのだろうか。よくしらないが。 じゅけんのころとか、いったい、なんだったんだろう。さむかった。べんとうがくさかった。くさいというのは、くさっていたわけではなくて、いわゆる~べんとうのにおい・というやつなんだが。 あの、くささというのは、なんとも、みじめなかんじだ。べつにぼくのおべんとうがひとにくらべておとっているわけではないのだろうけど^^^(おかあさんがきをつかってつくってくれた。ふつうよりは、ごうかなのだ。しかし、なにか、いたいたしくて、しおれている。)ぼくには、なにか、いたいたしかった。ゆうつだった。けっきょく、あのころのことは、なんでもゆうつなのだ。 (しかし、ぼくは、いまごまかそうとしているな。 ゆうつはゆうつなんだが、もっとちがっていたものが、わざわいしていたようなきがするんだ。)(これは、ふつうのじゅけんのゆうつではない。)(なんかもっと、おさないときからのことがからんでいるんだ。)(だってぼくは、なにはともあれ、あさのべんとうをつめるときがやだったもん。それが、えんそくとかのときもやだったんだ。えんそくとかのときもというよりも、えんそくのとき、とくにやだったようなきがする。けっきょく、やすむわけにはいかないから、(めだったりゆうがない)^^いくはいくわけたが。なんともやだった。べつに、いっちゃえばいっちゃえで『たのしいえんそく』ということになるのだろうけど、なんか、からだをひきずっていったようなところがあって、ゆうつだった。はっきりいって、こわい・んで、さっきのはなしじゃないけど、まさしく、こわい・ところがあった。それで、ほんとうに、あのうちのあさのふんいきは、なんともいえず、おどろおどろしいほどやだ。こどもごころに、やだった。とくに、あのいえのあのいまのふんいきが、ぼくはにはたえられないほど、ゆうつなものだった。とくに、あさの、まだ、とをあけてないときの、うすぐらがりの、けいこうとうの、・・・・、、、けいこうとうのひかりが、なんとも、いえずにやだった。だいどころにいくと、こまどから、ひかりがさしこんでいるのだが、そのゆういつ、あさをかんじさせるようなまどのぐあいがやだった。きたむきなのだ。そのまどは。だから、ひかっているといっても、しんみりと、(よるではなく、まっくらやみではなく)あさなんだよ、ひがとりあえずもあけているんだよというしょうめいぐらいにしかひかっていなかった。くらいあおから、いくぶんあかるいあおになっていくのがやだった。^^^しりめつれつだが。^^ぬかしているのだ。 ほんとうにやだったのは・・・、、ほんとうにやだったのは・・、、、、 これは、いわば、ひとつのやだったこと、と、いうことなのだが、これからいかなきゃいけないというほかにも、やだったのは、 いちばんやだったのは、おやじのいる、あの、あさのふんいきだ。えんそくにいくときとかは、はやく、いかなきゃいけないから、おやじとかちあうのだ。おやじは、そのときは、えんそくということで、えんりょしてくれているのだが、(ぼくにとっては、それほどたのしいことではない。あきらかにいっておくが、どっちかというと、ふたん・のほうがおおきいのだ。できれば、いかないですませたいというきもちがあるのだが、 それで、 ずるやすみして(なんともなつかしいことばだ、ずるやすみだなんて。いま、ぼくは、きせるしてといいそうになったんだが、きせるじゃないから、ずるやすみといったんだが、ようは、ぱす、してしまうことだ。おれは、いらないって、ぱすしてしまうことだ。やすみをあける。あるいは、えすけーぷ。えすけーぷというと、(なんかかっこういいぶんだけ、)やや、すくわれる。ようは、あなをあけてしまうことだが。ずるやすみというと、なんかーーーー、ひっ、さん、なきがする。けど、ぼくは、たいてい、いっつも、そういうきもちでいたんだ。やすみはすくなかったほうだけど。^^ これが、また、いえにいても、かにさされるほどやなんだ。からだじゅうかにさされるほど、やなことなんだ。みんなががっこうにいっているあいだ、やすむということは。ひまだしな。だいいちに、ひまで、やすんだときにいいのは、ほんの8:40ぷんぐらいまでで、やすむ!ってきめたときまでなんだ。それまでは、まようし、なんだか、せきたてられるようなきがするから、いてもたってもいられないようなきがするわけだが、(がっこうにいくのも)ぜったいにやだから、やすんじゃおうとおもっているわけで、つうじょうれべるで、できれば、やすみたいとおもっているのだから、そんなふうにいってるときは、よっぽど、いきたくないときなんだ。さっき、やすんだときにいいのは8:40ぷんぐらいまででといったんだが、あれは、うそで、『いいとき』じゃないな。だいたい、8じ45ふんぐらいになると、じこうで、(9じちょっとまえ、8じ55ふんぐらいのときだろうか、ともかく、そのときになると、じこうだからなんとかかいほうされるわけだが、それまで、きにかかる。^^きになるんだよなーー。^きになる。ひじょうに、きになるわけだが、それはもう、まだ、ねむたいから、ふてねしてしまう。なんだか、11じぐらいまで、しょんべん、もらしたようなやなきもちで、いしゃにいかなきゃいけないようなきもちで、ほんとう、に、なんだか、しまらないしょうがっこうじだいだよな。しょうがっこうていがくねんからそれなんだから、なんとも、ゆうつでやっていけない。ともかく、ぼくは、あのいえのあのあさが、だっい、き・らいで、たまったもんじゃねぇ!!!
なんねんやっていれば、きがすむんだ!
引用開始
『わたしが数年前モリーン市を視察していた時に、教育局長から聞いたところによると、子どもたちの中には教科書に記されているミシシッピー河が自分たちの家のかたわらを流れている河と関係があることを学んでびっくりするものが、毎年、多数でるという話しであった。地理というものがたんに、学校の教室内のことがらにすぎなくなっているが為に、[教科書にある]すべてのことがらは、かれらが毎日見たり、感じたり、ふれたりしている事実をいささかきちんと、そしてはっりと記述したものにほかならないということがわかると、多くの子ごもたちは、多かれ少かれ目がさめたような気がするのである。』
引用終わり
(なんとも、へんなやくだ。かきうつしてみて、へんだというのにきずいた。よんでいるだけじゃ、わからないものだ。)
と、まあ、ここにもちりきょういくとげんじつのずれがしてきされているわけであるが、これは、じつは、デューイというきょういくがくしゃが1899ねんに講演した内容なのである。1899ねんから、『すうねんまえ』といっているのだから、もうすぐ、ひゃくねんがたとうとしている。ひゃくねんがすぎさろうとしているのに、あいかわらず、おんなじことを『ちりきょういくけんきゅう』のかでくりかえしているのだから、たまったもんではない。これらのもんだいが、がっこうきょういくにほんしつてきなものだということに、もうそろそろ、きずかなければならない。(もう、いいかげん、やめたらどうなんだというきがするが、かれらはやめない。ほんとうに、もう、そろそろ、いいかげん、いまのがっこうそしきをいじすれば、ひつぜんてきにうまれてくるもんだいなんだということを、にんしきしなければならない。)
『ミルキーーはママの味』というよりも、ミルキーーは、チョコレートの味といった方が、より正確なのだ。ミルキーとチョコレートは一致しているが、ミルキーとママの味は一致していないからだ。だいたい、ママの味とはなんだ。『ママの味』がチョコレートだったら、たいんなのだ!! どういうことだ。
ところで、やつらは、『ママの味』とは、どういうことですか と、きいてしまう。こたえは、『やさしい味』とか『ミルクのようにやさしい味』と決まっている。
それが、一般的なイメージだというのだ。ところが、ママの味は、チョコレートの味なのだ。 ###(もうすこし、いきいきとひょうげんゆたかにあらわすと『やさしくて、ちちくさくて、あまいあじということになるのだろうか。まあ、それはいい)
ここらへんのかんじは、(かんかくといってもいい)かんかくは、せいしきとふせいしきにゆらいするとおもれる。ようは、め・にのっているほうが、せいしきで、じぶんのめでみているものがふせいしきだとするたいどなのだ。たとえば、(やまざきらのしてきするように)げんだいじんというのは、たとえ、じこがおこったにしろ、たとえ、じぶんのめのまえでじこがおこったにしろ、それをてれびでみないと、『あのじこがこのじこだったんだ』ということをはあくできないようになってしまっている。せいしきなめでぃあにのって、はじめて、めのまえのできごとがせいじょうに? かいしゃくされるということになれてしまっている。このかんかくは、(おおつからがしてきするように)おもいでづくりのためにりょうこうにいくというしんりにもあらわれている。つまり、あそこにいったんだよ・というしょうこずくりのために、りょうこうにいくわけで、げんじつとしゃしんがとうさくしてしまっている。これらは、ともにめ・のひきおこしたとうさくだが、どうもそのきげんは、がっこうきょういくにあったようなのである。がっこうきょういくというのは、もっともげんしてきなめ・だが、そのりょうにおいて、はじめて、げんざいてきなめ・のいみをもちえため・なのである。(しんぶんではだめだ。よまないひともいる。よみかたもちがう。らじおもそうだ。きくひともれば、きかないひともいる。きいたところで、きくばんぐみがちがっている。ところが、ガッコウだけは、とういつしたないようをぜいいんにながすることができた。このようなめ・はかつてそんざいしなかったのである。)
いえのまえにうまっているねぎと、がっこうのしゃかいでならっているのうさんぶつとのねぎがいっしょのものだったということにおどろいたり、がっこうでならっているかわが、いえのまえをながれているかわといっしょだったということにおどろく、のは、じつはひじょうにありふれたはんのうなのである。(おどろくにきまっているじゃないかといいたい。)がっこうでながれているじょうほうというのは、しゃちほこだったほどに、せいしきで、けんいづけがなされてなければならないのだ。いな、(がっこうというそしきをいじしていくうえでは、)とうぜん、そうなる。(こどもたちは)(ようじは、わらしべは)がっこうにはいるとき、いままでとは、ちがったところに、はいるぞ! とかくごをきめてはいるのである。そこでは、すくなくても、いままでとはちがったしすてむのせかいがあるということをかんじとってしまうのである。そういったふんいきにならされてしまう。しょうがっこういちねんのせんせいがこどもをがっこうにならすのに、ほねをおるのは、じつは、がっこうがいままでのせかいとはちがったところだぞということをこどもがかんじていることをあらわしているのである。つまり、がっこうのせんせいががっこうにてきおうさせるためにあのてこのてでほねをおらなければならないのは、じつは、がっこうがいしつのくうかんであるということをしょうめいしてみせているのである。がっこうは、あきらかに ちがった くうかんなのである。 いままでみにつけてきた、ほいくえんやようちえんやかていせいかつとは で・はかべをひくくしなければならないといっているが、じつは、かべをひくくすることは、ぜったいにできないのである。がっこうしすてむを(いまがっこといってそうぞうしうるところのがっこうしすてむを)いちどこわさないかぎり、ぜったいに、かきねをひくくすることなどできない。で・のころは、まだ、きぼうがあったとおもう。しかし。これはつうじょういうがっこうの、きほんてきな、ほんしつてきな、もんだいで、また、とくちょうなのだ。がっこうであるならば、かきねをひくくすることは、できない、。ざんねんながら、がっこうそしきをいじしてかきねをひくくすることは、できないのだ。きょうかいせんを、うすくることはできない。そこには、あきらかに、せいかつのだんぜつがある。せいかつかんのだんぜつがある。むしろ、がっこうのほんしつをとくちょうづけるのは、そこにあるのではないかとおもうぐらいだ。いづれにせよ、がっこうのかべをひくくして、せいかつや(にちじょうに)ちかづけるということは、しんでもできない。(いいかげん、ほんしつてきに、で・き・な・い・んだということに、きずいてほしいねぇー・ーー。
で・がもう、これらからでるけつろんをかいているんだもん。『もしわれわれがわれわれはすべてちきゅうじょうにせいかつするものであること、われわれはたいきのなかにせいそくするものであること、われわれのせいかつはあらゆるてんにおいてどじょうやしょくぶつやどうぶつのえいきょうをうけていること、ひかりとねつのおんけいによくしていることをかんがえさせてそのうえでがっこうのちりかがこれまでいかなるものであっかということをかんがえあわせてみるならば。こどものにちじょうせいかつのけいけんとがっこうにおいてかくもたりょうにさづけられているここのばらばらなきょうかとのあいだにあるかんげきがどんなものであるかがぴったりくるだろう。これはたんなるいちれいにすぎない。だが、たいていのひとびとはこうしたいちれいをよくおもいめぐらしてみることによってはじめて、がっこうというもののげんざいのふしぜんなじんいてきなじょうきょうをなにかうとぜんのこと、ないはひつようなことのようにかんがえることのぐをさとるであろう。』 ちりきょういくがくしゃよりもはるかにすすんでいるじゃないか。また、かれは、このようなことのおこるげんいんについてもかいている。『こどものたちばからみて、がっこうおけるおおきなろうひは、こどもががっこうのそとでえるけいけんをがっこうそのもののないぶでじゅうぶんに、じゆうにりようすることがさっぱりできないことからしょうずる。しかも、たほうにおいて、こどもはがっこうてまなんていいることがらを、にちじょうのせいかつにおうようすることができないのである。これはがっこうのこりつ---せいかつからのこりつである。こどもががっこうのきょうしつにはいると、かれは、そのかていやきんこうでうちこんでいるかんねんやきょうみやかつどうのたいぶぶんをじぶんのこころからしめだしてしまわなければならぬ。かくして、がっこうは、このにちじょうのけいけんをりようすることができないので、がっこうのきょうかにたいするきょうみをこどもおこさせるために、てをかえしなをかえてくしんどりょくしているのである。』ちりきょういくがくしゃよりも、よくげんじつをはあくしているとおもう。げんじつというよりも、ほんしつなのであるが。ところで、で・のあ・のしかたは、まだ、がっこうにきたいをかけている。がっこうのきのうをにちじょうにちかづけることで、こどもたちのじゆうなきょうみをくすぐることで、なんとか、かいけつしていこうというきもちがあふれているのだ。もっとも、これは、100ねんまえのはなしだ。 つまり、がっこうのきのうをかくじゅうすること、がっこうのせいかつにちかづけることをそのむねとしているのだが、これは、『むり』だった。それは、がっこうのほんしつにそぐわない。がっこうにきのうをしゅうちゅうさせていくほうほうでは、かきねはとれないのだ。たとえそれがいっけん、どんなに、うまくさぎょうできるようなさぎょうばがあったとしても、にちじょうのしょくたくにちかいしょくどうやがあったとしても、きょうみをくすぐりそうなじっけんじょうがあったとしても、にちじょうのせいかつからしゅっぱつするようなびじゅつやりょうりやかがくがあったにしても、きのうをがっこうしゅうちゅうしていくかたちでは、ぜったいにかいけつできない。 がっこうは、むしろ、(さまざまな)きのうをもたせるというよりも、ぶんさんしていかなければならない。
それと、『りょうりは、おしえようによっては、きょうどのせいかつとも、またちりにおいてとういつされるようなしかがくとも、すこしもかんけいをもたないように、これをおしえることもできるだろう。おそらく、これまでそういったかんけいがじっさいにあらわれることなく、おしえられてきたというのがいっぱんてきであっただろう。』といっている。いままでというのは、だいたい1899ねんぐらいまでのことだろうが、それから100ねんちかくたったのに、いまだに、こっちのかんけいをつけないでおしえてきたほうがほんりゅうで、(いっぱんてきで)、あいかわらず、それにたいしょしようとするやりかたが、しょうすうてきでじっけんてきだということに、ちゅういしなければならない。いままでも、そうだったし、これからも、そうなのだ。で・のじだいにこれらのことをしてきするのは、いみのあることだっただろうけど、いまだに、これらのしてきをくりかえしているというのでは、あまり、いみのあることとはいえない。 これは、ちしきにかんするかんがえかたができていないからだ。がっこうは、ちしきをおしえるところなのである。ざんねんながら、ちしきしかあつかえない。ちしきだから、あつかえるのだ。ちしきからいっぽでもそとにでれば、あつかえなくなってしまうのである。それは、おのおののせんせいがむのうだとかいっているのではない。そういった、きのう、なのだ、といっているのである。ここらへんのことが、わかってくんないんだよなーーー。なんでだろう。)いいかげん、こんなこといってきて、いまだに、かんれんづけないでおしえているほうが、しゅりゅうだというじじつのほうは、どうせつめいするのか。どうせつめいするのかをせつめいしなきゃ、すくいようがないじゃないか。それは、さっきからいっているように、がっこうではちしきしかあつかえないから、なのだ。ちしきというのはふへんかしているからあつかえるわけで、ふへんかしていなかったら、ちしきではないのだ。ちしきだから・がっこうであつかえるのだ。 だから、ここにはかかないけれども、めをみはるような、で・のしょぶつやきこうやとうげいやりょうりといったもろもろの、こどものきょうみにそくしたようなせいかつてきながくもん(べんきょう)へのあぷろーちは、--(ほんとうに、よんでみるだけなら、いまにもできそうだし、じっさいにいいけっかをもたらしそうなのであるが)--いぜんとして、しゅりゅうにりえないのである。それは、がっこうの『ちしきせい』にかんするかんがえかたがねけているからだ。もっとも、このじだいには、ぬけていない。しかし、いまになっていうとなると、やっぱり、ぬけているのだ。 さまざまなきのうをがっこうにあつめるのではなくて、さまざまなきのうを がっこうにしてしまうのだ。これは、(いままでとは)べくとるが180° ちがう。そっちじゃなきゃ、どうやっても、かいけつできない。