Aこれと同じことが、せんせいじゅつにもいえる。 まわりのひとも、やはり、としごろのおんなのこだから、そのうらないについて、おなじぐらいは、ちゃんとしっているのだ。とくにひたしいひととはなすばあいにはそうだろう。つまり、そうだんごとや『こい』にかんしては、そうとうのきょうみしんしんのはなしあいがひみつりにおこなわれているとおもえる。だから、じぶんも、なになにざのせいかくとしっていて、ひたしいはなしあいてについても、なになにざとしっているとすると、そこにすりこみがおこるのではないかといっている。つまり、こういが、そのように、かいしゃくされがちになる。ということなのである。
しかし、 C ひとのこうどうのかいしゃく・は、なるべくかんたんでわかりやすいものがいい。そのようにわりきれるものがいいのだ。これは、じぶんのことについてしる・ということではなくて、ただたんに、たにんのこうどうをりかいするには、といういみでいっているのである。つまり、60や120や360になるようなむずかしいぶんるいほうでなく、なるべく、すくないほうがいい。けつえきがたで4、せんせいじゅつで12、ここらへんが、だとうだろう。せんせいじゅつでもおおすぎるぐらいなのだが、あまりにもすくないと、しんひょうせいをかく。つまり、それらしくない。せいかくが、おおきくわければ2つだとすると、あまりにもおおざっぱすぎて、うらなっているいみがなくなってしまうのだ。それにはちょうど、12ぐらいがのぞましい。いろいろなぱたーんをみいだすことができるからだ。つまり、それらしくなるのだ。ところで、これらは、げんぜんとわかれるものでなければならない。つまり、うまれたひにちとか、だれにでもあるもので、なおかつ、こうせいにおよんで、へんこうふかのうで、だれかれなく、ぴっちりとわけられるものがよいのだ。さいほど、ふたつではなしにならないといったが、ふたつでも、じゅうぶんかいしゃくとしてなりたつものがある。そして、それは、げんぜんとわかれ、あとでへんこうふかのうだ。すなわち、それは、だん・じょ、である。いちど、おとこいうかいしゃくがつけば、それは、おとこというかいしゃくのもとにさらされるし、いちど、おんなというかいしゃくがつけば、おんなのかいしゃくのもとにさらされるのだ。しもか、じぶんではじゅゆうにかえられないうえ、いちど、おんなだとかおとこだとかつくと、かいしゃくがいじょうによういになるのだ。しかも、『おんな』であるいじょうは、ひていできない。『おとこ』であるいじょうはひていできない。なぜ、ひていできないかというと、それはもともと、たしからしいことをいっていないから、そうなのだ。つまり、もっともらしくきこえるけど、でたらめのことをいっているから、ひていできない。さいしょっから、なにも、たしかなことはいっていないから、ひていできないということなのだ。ところが、なにも、たしかなことはいっていない、なにも、たしかなこんきょにもとづいていっていない、にもかかわらず、それは、いちど、あいてがそうりかいすると、たちどころにはけしがたいものになるのだ。として、それは、ほんにんにも、ぜったいにひていできない。なぜならは、まず、そのようにしてあるし、さっきもいっように、ひていできないことをいっているからだ。(つまり、でたらめなことしかいっていないといういみ)それでも、がいぶに、そうりかいされると、ほんにんも、だっまっているわけにはいかないのだ。そこで、りふれくしょんがおこる。たいていのばあい、はんたいのほうこうにでたり、じゅんほうこうにながれたりする。しかし、いづれにせよ、にんげんは、がいぶしゃとついあっているので、たにんがじぶんについていっていることは、たとえどんなこんきょのないことでも、そうとうれべるできになるものなのだ。たとえ、むしするにしろ、むしするという、あるいみで、せっきょくてきなきょぜつをしなければならない。いちいち、ちちくりまわしたが、ようは、こんきょがないにもかかわらず、こうどう・いしきとしてえいきょうをうけるということをいいたかったのである。そして、それは、さいごのさいごまで、はっきりしない。もとが、でらめだから。そうおもえればいいというものだから。