道徳教育とか人間教育ということが言われるけど、それは、近代の学校制度とはものすごく相性が悪い。近代の学校制度の中にある学校であれば、学習内容、あるいは、無意識的に押し付けているさまざまな行動規範があり、それらは、統一的なものだから、どれだけ、道徳教育、人間教育ということを、言っても無駄だということになる。
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えっへん、。ぼくが、このあいだろんのことではなしたいといっていたことは、『どうして、はんがっこうもがっこうもおなじところにおちていくのだろう』ということなのです。これは、ぼくが、ほんやをまわってみながらおもっていたことですが、『なんで、いわゆるがっこうひはんのほうも、いわゆるじゅんせいのがっこうがわも、どうして、おなじところにおちていくのだろう。-- かれらのしゅちょうはまったくおなじじゃないか』ということなのです。しゅっぱんしゃのひとにてみじかにもうしますと、どうして、たろうじろうしゃもこくどしゃもしみずしょいんもまったくおなじなんだろう、』ということなのです。また、きょういくろんというと、しゅたいなーとかふれねとかながのけんのしょうがこうやそういったものがとりあげられますが、どうして、やることをやってからそれらのものをとりあげないのだろう。ということなのです。りそうは、たかくもっていい、 にんげんのきょういくでも こどものうりょくをかいかさせるきょうくでも、なんでもいい。ただ、それらは、どちらかというとたいしょできないもんだいであって、すうこうなもんだいであって、そのまえに、まだ、やりうることがたくさんあるということなのです。なんで、『にんげんのきょういく』におちていくか、ぼくはひじょうにぎもんをかんじるのだ。なおかつ、かれらのこうまんさにむかつく。にんげんなんてきょういく・できるはずがないじゃないか。そりゃ、たしかに、えいきょうをあたえることはできる。しかし、いとてきにはえいきょうをあたええない。こりゃ、しんりがくをやっていればわかるけど、にんげんは、えーというほうこうにおされたら、えーというほうこうにうごくものではない。いとてきにきょういくするということはできないのだ。(だって、こころのめかにずむさえわからないのだから。さらに、せいしんぶんせきをやったところで、ひとつのもっともらしそうなかいしゃくが・できあがるというだけなのだ。
かれらはなにか、こうおしえれば、こうなる・といういんがをみとめているようだが、それは、じっさいには、じんちをはるかにこえてしまうできごとになるのだ。にんげんは、にんげんのさばきてにはなりえないし、(なぜなら、だれがいったいさばけるというのだ、だれがいったい、たのにんげんにたいして、それほどえらいのか、 さばけるはずはないのだ。ただしゃかいてきしょうにんにおいてしょすることしかできない。このにんげんは、にんげんのさばきてになりえない」というのは、ど・のめいだいだが、さばきてになれないのに、きょういくかになりえるはずがないのだ。かれらはあんまりにもむじゃきに、『きょういく』なるものの、ゆうようせいをしんじている。そのしんじこみかたが・もんだいだ、きけんだ、あぶない』といっているのだ。にんげんは、にんげんをきょういくすることはできないのである。
はなしはかわるけど、いまのがっこうといのは、むきてきなきこうとしてかたちづくられている。そのちいきにすんでいるひとが、むぞうさにかきあつめられるのだから、あたりまえじゃないか。ところが、このむきてきな(ほんらいむきてきな)そしきに、なんらかの『ゆうきせい』をふよしようとしてやっきになる。それが、30ねんまえのひとたちがみていた、いまのひとたちもだいぶぶんのひとがみている、がっきゅうのげんそう・だったとおもう。がっきゅうのげんそうは、がっこうのげんそうであり、がっこうしゃかい、がくれきしゃかいのげんそうなのである。これらは、いちれんのものである。がくれきしゃかいはわるいけど、がっこうはわるくないといういいかたはできないのだ。ところが、かれらは、いったんがっこうのとあるぶぶんをわるだまとしてこうげきしだせば、あんしんしてしまう。しかし、がっこうのわるいぶぶんは、そんなところにあるのではない。かれらのむじゃきなげんそうのなかに、げんそうのもたらすじっさいじょうのあつりょくのなかに、あるのだ。 これは、まえもはなしたかもしれないけど、なにかがっこうのもんだいがもちあがると、がっきゅうやがっこうのにんげんかんけい・でのりきろうとするが、それはまったくのぎゃくなのである。かれらのがっきゅうがごうもんのじったいなのだ。がっきゅうのもんだいがもちあがったとき、がっきゅうのにんげんかんけいのきずな・でのりきろうとする。しかし、それはほんらいがまちがっているのだ。かんりきょういくがわも(せいとうがっこうきょういくがわも、がっきゅう・やにんげんかんけい・でのりきろうとするし、はんせいとうがっこうがわも、やはり、がっきゅうや、にんげんかんけい・でのりきろうとする。そしてこれがせいしんろんなら(せいしんろんでもないのだが、ずいぶんとどぶにおちたせいしんろんだ・・しかし、かれらのいういみでのせいしんろんだとおもってほしい)せいしんろんなら、 ほうりつやかいりつ、きまり・きのう・でのりきろうとするのが、げんじつろんなのだ。 ぼくは、やってられない。このどちらも、おおばかものだ。このてのひはん・しかでないから、あほなのだ。これは、ぼくがぼうとうでいったことにかんれんする。すなわち、どちらも、おちている。はなしにならん。これが、げんじょうといえば、げんじょうだ。
ところで、にんげんかんけいでのりきろうとする・といっときに、べつににんげんかんけいでのりきろうとしているわけではない、というひとがいるだろう。しかし、あきらかに、にんげんかんけいでのりきろうとしているのである。あるいは、にんげんかんけいでのりきることに、き・た・い・する。このきたいかんは、さっきからいっているように、そうとうにおおきい。そりゃ、ほとんどこのままのじょうきょうではかいけつふかのうなもんだいだから、(かいけつしないもんだいは)、そういったことにきたいするしかない。というじょうきょうなのだろうけど、それにしても、のろわれたじょうきょうだし、ばかなじょうきょうだ。にんげんかんけいとかそういったものをかるくくちにしてほしくないのだ。なおかつ、きゅうせいしゅのようにあがめるようにしてくちにしてほしくない。それこそ、ひにんげんてきなたいどといえるじゃないか。(かってににんげんせい・をそんなにきたいのこめられるものにするな・ということである。にんげんかんけいのあるところで、それだけもめているのだから。どうにもならないところにいきているから、じんかんせいなのではないか。みじかくいってしまえば、である。しかし、これをながくいうのは、たいへんだ。なおかつ、わかるようにいうのは、ひどくたいへんだ。おそらく、いまのいいかただと、ごかいをうけたとおもわれる。ぼくはさいしょ、それこそ、ひにんげんてきだ・でおわらせようとしたのである。しかし、それだと、わからないとおもって、いろいろ、つけたしてしまったのだが、それは、すなわち、まちがいのぶんしょうである。やはり、『ひにんげんてきだ』でおわらすべきだったとおもえる。すくなくても、それのほうが、まちがいをふくんでない。)
とどのつまりは、わかりやすくしようとおもって、いいたいことをわすれてしまったのだ。つけたすのは、かんたんだし。
ともかく、『ひにんげんてき』といったのは、そのことばのとうりにうけとってください。じっさいにぼくには『ひにんげんてき』だしにんげんというものをまったくむししたみかたのようにおもえる。これはヒューマニズムのいみでのにんげんせいではない。つまり、とくにいいいみがこめられているにんげんせいではないということに、いちようちゅういしておいてください。ぼくのいう、にんげんせいというのは、いっつも、そういういみだ。そのもの、といういみだ。いいのでも、わるいのでも、なく、そのものとしての、にんげんせいといういみだ。
ていねいひょうげんではじめて、けっきょくは、だんていのひょうげんになるというぶれいをおゆるしください。もともと、ぼくには、ていねいごでぶんをかくくせもなければ、ものをかんがえるくせもないので、ついうっかり、ものをかんがえるときのぶんたいになってしまうのです。(どうしても、きにくわないというときは、そのむねつたえてください。そのときは、ていねいごでかきつづけます。)
このあいだ、ききたかったことというのは、ぼうとうにかいたとうり、『どうして、じゅんすいがっこうがわもがっこうひはんがわも、ひとつのところにおちていくのだろう。そのことについて、どうおもいますか。』ということなのです。どうおもいますか。いちよういけんをきいておきたい。
ほそく)じっさいに、いちまいのしーとは、40*32でしゅつりょくしてあります。ぼくには、これがてきとうだとおもいます。すちわち、すこしおおきなもじで(40)いっこうにつき、16ぎょうということです。おおきさは、ぼくのいめーじでは、A5。
てみじかにいえば、どっからでもよめるさくひんをかきたい。これは、ろんぶんにもいえる。どっこらよんでもいいろんぶんをかきたい。もともと、かがくのはったつはそういったものだったのです。かがくのはったつは、ここではめんどうですからかきませんが、ぼくはこじんてきにいえば、ろんぶんは、「ここぞ!」 とおもったところからよみだす。つまり、それが、であいなのだから。しょうせつのばあいはそのようにいかない。しょうせつはものがたりでありどらまつるぎーでありしーけんしゃるはぁいるだから、まえをよまないと、なにがなんだかわからなくなる。しかし、ほんとうにそうだろうかとかんがえる。しょうせつでも、らんだむあくせすできるしょうせつがあってもいいじゃないか。とおもう。おもうどころか、それがぼくののぞみだ。
だいたい、ほんをいちからじゅうまでよむひとというのは、すくないのではないだろうか。たとえば、ざっしにはっぴょうしたいくつかのろんぶんをほんにまとめるばあいは、かならず、1しょう、2しょう、3しょう、4しょう・・というぐあいにへんしゅうする。ところが、もともとは、たんぱつのもので、じゅんじょはなかった。そうしたばあいは、どっからよんでもいいのだ。たとえば、2しょうをよんで、5しょうをよんで、というよみかたをしてもいっこうにもんだいはない。ところが、1、2、3、4、・・とつづいているばあいは、たいてい1しょうからよむものなのだ。さいごまで1、2、3、4、・・といけば、いい。しかし、くだらないものをよむというのは、たいくつなことだから、とちゅうでざせつしたりしてしまう。いちどざせつすると、あんまりよみたくない。それよりは、さいしょっから、しょうをむしして、じぶんのきょうみのもっているところからよんだほうがよりよいのだ。たとえ、わからなくても、ああ、3しょうをよめばいいのだな、ということがわかればいいじゃないか。そのようなもんだいいしきのあったほうが、もちろん、もんだいいしきのなかったときよりも、よくあたまにはいるのだ。5しょうをよんでいて、これはしらないな、なんだろう・とおもって、3しょうをよむとそのことについてくわしくかいてあったというほうが、じゅんじょだてて1、2、3、ときて、3しょうをもんだいいしきもなくよむよりも、よりよいのだ。ばんごうをつけるということは、あきらかによみかたを『き・て・い』してしまう。いしきとはかんけいなしに、よみかたをきていしてしまうのだ。それはつうじょうむしできるほどちいさいものだが、みかたをきていしているには、かわりがない。(ぼくはこのことについて、いちいちもんくをつけない。なぜなら、かってによめばいいのだから。しかし、ろんぶんのやりかたには、むかつくものがある。むかつくというよりも、ひじょうに、つまらないのだ。)
みかたをげんていするについて、たとえをあげるなら、たとえば、げきじょうにげきをみにいったとする。そういったばあいには、ぶたいのだれをみてようがじゆうだ。しゅやくじゃないわきやくのうごきをみててもいいし、ぶたいせっとのとあるぶぶんをみていてもいい、せりふをききながら、めをとじてかんがえるのもいいだろう。しかし、これが、いちど、てれびにのると、みかたがきていされる。すちわち、かめらまんのいとが(もっといえば、こういうときには、こういうかっとをいれるということをそうごうてきにきめるひとのみかたのいとが)はんえいされることになる。しゅやくがあっぷになっているときに、べつのわきやくのはんのうをみていたいかもしれないのだ。しかし、それは、こじんてきなみかたである。そのようなみかたは、じっさに、げきじょうにいかなければ、みれない。ますではないのだ。これはひきんなれいである。ぼくは、これにかんしては、あまり、もんくをいわない。てれびでみるというらくをしているのだから。(それほどかんしんがないのだろう。)それに、ほんをよむばあいも、もんくをいわない。それは、さっきいったように、いくらでもすきなところから、よめるからだ。しかし、ほんをかくばあいは、ちっと、もんくがある。なるべく、どこからでもよめるものにしたい。ひっくりかえってよんでもさしさわりのないものにしたい。さらにいえば、らんだむはぁいるにちかいものにしたい。
げんだいじんは、ものがたりせいとかとういつせいとかこうぞうせいといったものをもとめすぎる。ほんらいは、そういったものでは、なかったのだ。なおかつ、いまでも、そういったものではない。いわゆる、ろんぶんのかきかたがはったつしたのは、ついさいきんのことなのだ。そして、きゃっかんつうじょうかがくのほうほうをもちいて(すなわち、ろんぶんのかきかたをまねして)ふつうのほんがだされるようになったのは、もっと、もっと、さいきんのことだ。ところが、これらは、つうじょうのかきゃっかんぱらだいむのうえにのっかっているばあいにはゆうこうなのだが、いっぽでもそこをでれば、ふゆうこうなものになる。もし、ほんとうにがくもんをするとなると、あいかわらず、にんげんはたいだんというほうほうにたよらなければならない。(ぼくのやりたいのは、がくもんであり、せいかつのがくもんである。)
きゃっかんぱらだいむにも、そうとうにもんだいがあるが、きゃっかんぱらだいむをしんじてしまうことには、もっと、もんだいがある。
ところで、ぼくは、こんらんがくるだろうといいましたが、あれは、ほんとうです。ぼくは、このさくひんでこんらんのこんらんたるじょうきょうをかきたい。
ほそく)こんかいおくったぶんしょうも、むらやまさんのしてきした(どこでかいぎょうか、なんぎょういれるのか、どういうけいしきでかくのか)というてんについては、ちゅういして、かいてはいない。そのてんにかんしては、のちにそうだんしながらつめていくつもりだ。 ・ぼくは、こみっくのようなろんぶんのようなそれでいていんしょうにのこるたいぷのぶんしょうをかきたい。 ・いっさつのほんがあついとしてそれが、はやくよめるのは、みりょくだ。よんだーーーー!」というつもりになれる。このまんぞくかんは、たいせつなのだ。しょうせつなどで(せけんがっこうからぶんがくしていされているばあいには(つまり、そうせきとかだざいとかあくたがわやへっせのいわゆるめいさくのばあいには、)こうこうせいは、うすいほんをよみたがる。それは、とりもなおさず、うすいにもかかわらず、「いっぽんよめた!」といえるからだ。いっさつのめいさくと、そのさんばいのりょうをもつめいさくのばあい、(つまり、まえのほんだといっさつで・・をよめたといえるのに、うしろのほんだと、まだ1かんめかんよんでないということになるのだが、このばあいには、)いっさつでおわるほうをよみたがるけいこうがれきぜんとしてある。こみっくがうれるのは、よむじかんがすくないわりに、「よんだーーー!!」というかいほうかんがあるからだ。つまり、そこにそそぐ、たいりょくやじかんのりょうがじんだいだと、(よっぽどのよみたいきもちがないと)よむないことになる。(それに、いいかわるいかは、よんでみないと(よみだしてみないとわからないので)ふといほんはけいえんされがちなのである。ぶすうをもんだいにするなら、このことにるいすべきである。
あんまりにもながすぎて、(とくがわいえやすとか、なんじゅっかんもすすむばあいには、それをうりものにするしかない。つまり、よりむずかしいことをたっせいしたというきもちが(よんでるあいだだいぶてつだって)よみつづける、というこうかをむしできないのである。(むずかしいはぁみこんとかんたんなはぁみこんでは、とうぜん、むずかしいほうが、よりたっせいかんがあるのだ。また、しーるをあつめたり、そのままりょうがかえってくるものは、よりこんなんなものがこのまれる。これは、よりむしゃしゅぎょうにたえたほうがえらいのだとするかんねん、すなわち、とうたつのかんねんのあらわれなのである。これは、こどもどころのはなしではなく、にんげんいっぱんのはなしである。(ほそくだが、れんさいちゅうはそのかぎりではない。たんこうぼんになったときのはなしだ。)
・したがって、どばっ・とあついか(なんかんもつづくか)、ごくごくうすいというにたいぷにわかれるのである。ひるがえって、じぶんのことにげんきゅうすれば、まず、ながいはなしは、(よっぽどないようがなきゃ、)よむきなれない。みじかいのでもよいのだが、(たとえばあくたがわ、かじいなど)それでは、たっせいかんのりびどーからいうとひくいだろう。そこで、ぼくのかくほんは、そのふたつのりてんをかねあわせたものなのである。すちわち、かるくよめるわりには、ほんがみためあついから、たっせいかんがもてるというほんなのである。(これは、さっきも、せつめいしたが、こみっくのやりかたなのである。もんだいは、じっさいのりょうではなく、みためのそんざいかんなのである。(まんがで、まるでてつがくしょのようなじゅうばんができるのは(それが、ちょっとまえのぶーむで、いまはていちゃくした)、このこうかのぜつだいさをものがっているものなのである。
・なおかつ、こみくっにはない、しこうせいがあるのだから、これはいうことがないのである。おとながもんだいにしているのは、こみっくが「かるい」ということなのだが、じつは、こみっくは(おとながそんなことをいっているあいだに)そうとうなことにちゃれんじしてしまっているのである。そうとうなもんだいにちゃれんじしてしまっているる。だから、へたなぶんがくなどよりも、ぶんがくせいを『もっている』げんがつに、もっているのである。それが、こみっくりゅうせいのひとつのおおきいげんいんなのである。ここのところに、るいされよ。
さんざんいうが、ぼくのほんのとくちょうは、ふといのに、「かるくよめる」から、どちらのじょうけんもみたしているのである。うすすぎると(「なんでぇ、あれなら、かんたんによめるじゃないか」というかんがえが、こんどはしはいてきになるのである。もっとも、くちにだしていったりはしないが。)
「むずかしいほんをよんじゃったな」というばあいには、うすいほんをよむけいこうがある。それでいて、ないようがすかすかかというと、そうではない。ちゃんと、なかみは、こいのだ。しかし、それには、どうしても、あのようなかきたにならねばならぬ。 ・げまいんしゃふと ようするに、ぼくのいいたいのは、そのひとにとっていみのない・げ・よりくるしいものはないから、がっこうは、いちど、げぜ・にいこうしなければならないということなのである。じぶんでこれがわたしのげ・であるとおもうとどうじに、そこにはしゃかいのしょうにんとしてのげ・とがあるのである。げ・というばあいには、しゃかいのしょうにんとしてのきのうのほうがおおい。ところが、しゃかいのげ・のしょうにんと、こじんのげ・のしょうにんがくいちがってしまった。これは、ふこうなことなのである。そこで、いちど、げ・をこわして、がっこうをこしかけてきそんざいにして、そのあとで、じぶんがこれがわたしのげ・であるといえるような、こじんにとっていみのあるそしきをつくりださなければならない。それが、とりあえず、にんげんのかいほうであり、こじんのかいほうなのである。
・もじ
このことにかんしては、ひもじぶんかともじぶんかのことについてかんがえなければならない。ひもじぶんかというのは、もじをもてなかったみかいのぶんかではなくて、もじをもつことをむいしきてきにちょっかんてきにさけたぶんかなのである。もじをもつとどうなるか・ ・・ げんざいのようにじんるいがしょいきれないもんだいをせおいこむようになるのである。とうてい、いまのじんるいには、げんざいやまずみにされているもんだいをしょりするちからはない。このけっかをちょっかんして、もじをもつことをさけた。
たしかに、これはかせつのちいをまのがれない。しかし、もじがないから、みかいなんだ。もじをおしえよう。」というのは、あまりにも、きんだいしゅぎてきなきんしにおかされている。かれらは、いとてきに、むいしきてきにさけたかもしれないのだ。どちらかは、まだ、わからない。
たしかに、もじをしらないのは、このぶんめいのなかでいきていくには、あまりにもおおきいふたんになる。だから、もじはおしえなければならないが、そのうえで、もじのちくせきとぶんめいのそくどということについてかんがえなければならないのである。
それとなんべんもしゅちょうすることだが、もじと、ほかのがくりょくといわれているものは、こんぽんてきにちがうのである。まったくちがう。まったく、ちがうものとしてとりあつかわなければならない。これらを、いっしょのものとしてとらえてはいけないのである。もじというのは、げんざいのしゃかいにいきるぱすぽーとのようなものである。これがないとたいへんにくるしい。いらないこんぷれっくすもかんじるだろう。しかし、ふこうなことに、これだけおやのしきじりつがあっぷしたしゃかいでも、がっこうをとりつぶせば、かならず、おやにもじをおしえてもられないこがでてくる。おやがもじをしらないりつがたいへんにたかいばあい(たとえば、めいじのはじめなど)と、おやがもじをしっているりつがたいへんたかいばあいでは、じょうきょうをわけてかんがえなければならないのだが、このじょうきょうについてかんがえるばあいは、よりよいじょうきょうをもとめるばあいである。もじはくになりこうきょうたいがほしょうしなければならないものであり、そのいみでは、じゅんすいにがっこうてきでありうる。すなわち、あるていどのきょうせいりょくをもつ。きょうせいりょくは、こどもにではなく、おやにである。じぶんでもじをおしえることにせきにんをもつばあいならよいが、せきにんをもてないばあいには、がっこうにあづけてもらうしかない。このように、もじにかんしては、がっこうは、さいていげんをほしょうするいみで、どうしてもひつようになってくるし、また、もじをおしえられないおやにたいして、きょうせいりょくをもつ。