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ひらがな日記思考のままに入力

思ったことをそのまま入力したブログです。ひらがなで入力してます。だから、ものすごく読みにくいです。幼稚に見えます。

体罰は許されるかどうか・じゃなぁ 0105A

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体罰は許されるかどうか・じゃなぁ 0105A

体罰は許されるかどうか・じゃなぁ
                                        体罰は許されるべきか、それとも、ちょっとしたものでも悪いのか、という議論は、くだらないものだ。ところが、これについても、あんまりコンセンサスがとれていないのは、悲しいことだ。と、いうのは、やはり、問題意識とそれに対する議論が足りないからコンセンサスが取れないと思うからである。これらは(多くの人にとって)大した問題じゃないが、やっぱり、きちんと考えておく必要があるのではないか。
                                        『体罰』は許されるかどうか、という議論は、たしかにくだらない。この視点から議論をくりかえしていては、いつになっても、地平をみることはできない。                                                 ぎろんのこんらん、おのおののたちばのことばつのつかわけについて、
                                        このてのはなしになると、かならず、おのおののひとがおのおののことばをつかってはなすので、                                                                                                                    てみじかにいっておこう。ようは、ひとをなぐるときには、こじんとしてなぐらなければならないのである。こじんのはんだんやかんじょうをかけて、なぐらなければならないのである。しかし、じっさいには、こじんとしてなぐっているのではなく、せんせいとしてなぐっているのである。あるいは、きょうしとしてなぐっているのである。これは、たいばつといわれるもののふたつのせいかくによっている。すなわち、たいばつとよばれるものは、おおきくわけてふたつあるのである。ふつうたいばつというのは、げんばかんとくとしてそのばのじたいにしょするためにこうししているのであって、あいじょううんぬんのもんだいではないのである。(しかし、いまのこうこうせいのほしゅてきなのにはおどろいた。こうこうせいにもなって、そんなにひとにしかられることをのぞむのだろうか。どうかしているのではないだろうか。)たとえにでたように、 もし、じゅぎょうちゅうにはなうたをうたって、じゅぎょうができないとき、どうするか、 もし、ちゅういしても、ちゅういしてもどうしても「おれはかってにはなうたをうたってんだ」といって、ちゅういをきかないときどうするのか・ というもん                                                                                                 ようするに、ひとをなぐるときは、こじんのぜんじんかくをかけてなぐらなければならないのである。このばあいは、こじんがなぐるわけだから、それについてどうしてもがまんできないのなら、せいとがせんせいをなぐってもよい。ただ、いづれにせよ、こじんたいこじんなのである。つれだって、なぐってはいけない。せんせいがつるんでどんぶりにしてせいとをなぐってもいけないし、せいとがつるんで、どんぶりにしてせんせいをなぐってもいけない。これは、こじんのかんじょうとじんかくのもんだいだからである。たにんがはいりこむよちはいないのである。ぜんじんかくをかけてなぐりかえされるのをかくごでなぐったなら、それは、あいじょうがある・といえるだろう。(ぼくは、あいじょうがあるといういいかたはきらいなのだが、こうこうせいがそんなことはおくびにもださないでつかっていたので、いちよう、あいじょうがあるというひょうげんをつかっておく。)たいばつといういじょうは、ばつであるわけたが、にんげんはにんげんをばっせないのだから、ばつではないのである。これはことばのもんだいだから、それほどじゅうようではないが、いちようことわっておこう。にんげんは、にんげんをさばくことはできない。にんげんがにんげんをさばくことができないいじょう、もちろん、ばっすることもできないのである。(ひとはひとのさばきてになれるだろうか・ というど・のめいだいはじつはひじょうにじゅうようなものなのである。さらに、ひとはひとをしょすることしかできない・というくり・のけつろんもひじょうにじゅうようなものなのである。よだんだが、ど・がひとはひとのさばきてになりうるだろうか・ということについてなやみきったのは、いっしんきょうのえいきょうだとおもわれる。すなわち、かれがきりすときょうぶんかけんにうまれそだったことが、このめいだいについてなやみきったげいいんになったとおもわれる。じっさい、まともなしこうりょくをもちあわせたにんげんが、きんだいのほうせいどのもとにくらしていたら、このことについてどうしてもなやみつづけるだろう。)ところで、にんげんはにんげんのさばきてになりうるか・ いやなれない ということをいったばあいには、それは、おとながおとなのさばきてになりえないということをいっているのだろうとおもったら、おおまちがいである。 こどものさばきてにもなれないのである。じっさい、あいじょうがあれば、たいばつで、あいじょうがなければ、ただのぼうりょくだ・といういけんがでたが、これはかなりあぶないいけんなのである。そりゃ、げんごのうえではあっているが、じっさいのもんだいとしては、かなりまちがっている。というよりも、おそらくこのてのはつげんをするひとは、あまりじっさいのことについてはかんがえたことがないのではないかとおもわれる。こんなおだいもくがとなえられたら、あいじょうのもとに、どれだけのただのぼうりょくがごうほうてきにおこなわれるか、わかったものではないのである。・・だから、 きせいがいり、たいばつがいるかどうかについてはなしあっているわけで、さいしょっからそれですんだら、まったくはなしあいのひつようもないぐらいのことなのである。じっさいに、どす・はまさにせいてきこうふんをえるためにようじをむちうつきょうようのあるふうふのことについてかいているが、そういったひとたちでも、さいばんしょにとうじょうすれば、しつけのためにやあいじょうをもってやったということができるのだ。                      

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