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ひらがな日記思考のままに入力

思ったことをそのまま入力したブログです。ひらがなで入力してます。だから、ものすごく読みにくいです。幼稚に見えます。

人間は、4、5時間働けばよい 0110

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人間は、4、5時間働けばよい 0110

人間は、4、5時間働けばよい、                                                                                    人間は4時間ぐらい働けばよいのじゃないだろうか。どこから4時間という数字がでてくるかというと、これはまだ考えていない。感だ。感じがするというだけだが、一日四時間働けばいいことにすると、いろいろうまくいくことがある。

ます、経済の規模を小さくしなければならないから、いままでどうりに働くと、失業者が出るが、一日4時間にしておけば、3分の一に失業者を減らすことができる。一日12時間運営するとすると、3交代で埋まる。
                                        一日4、5時間働けばよい・というのは、べつに、4時間しかはたらいてはいけないといっているわけではない。それぞれ、勝手に使えば良い。ただ、会社から社会に転換する必要がある。それには、おそらく、4時間というのが妥当な数字だろう。4時間働けば、くって、ねるだけはできる・という経済体制をつくりたい。

文明が滅びないようにするには、飢え死寸前のレベルを保つのがもっとも好ましい。飢えないが、肥えないといったレベルだ。つまり、貧困ではないが、富みすぎないというレベルを保つ為には、大体今の土地利用のレベルだと、4、5時間というセンが良いのではないかという予想がつく。人間が食物を調達するのに要する時間は、だいたい4、5時間が望ましい。

そのあとは、文化的な活動に使えば良い。文化的な活動といっても、能や歌舞伎を見に行くことではなくて、自分の興味あることについて興味ある人と話すといった行為のことだ。(もちろん、能に興味のある人は、能のことについて、話せばよい。べつに差別しない。)
                                                                                社会の活動をしたい人は、社会の為になるようなことをすればよい。ただ、今までだと、会社に所属して、あとは、趣味で・と、完全に、わかれていたのかだが、これからは、わかれなくなる。つまり、意識の面で、それらは同じ、生活であって、連続的なものであって、生活のきれめがない。いわゆる、イリイチのいうシャドーワークをそのまま文化レベルまで押しあげて、そのまま、区別なく、行なうということである。シャドーワーク(の価値を)認めるということは、日のあたる作業にシャドーワークを取り組もうとする努力にとってかわられることがあるが、逆に、シャドーワークの中に日のあたる作業を取り込もうとする努力が必要なのではないかといっているのである。そうすれば、一日の流れは、一連のリズムにのる。すなわち、シャドーワークと指標になるような仕事を意識の上でわけなくてもすむような状態になると思われる。努力の方向がちょっと違うのである。

#にひをあてて、ノーマルなほうを取り込もうという努力が必要だといっているのである。そうじゃないと、社会的活動が、なんていうんだろう、本当に生活の一部になることはないのではないかと思われるのである。なんでかというと、一度今のような社会ができてしまったからである。つまり、産業革命以降の生活と仕事がはっきりとわかれてしまうタイプの生活ができあがってしまったからなのである。そして、それは、人間に労働なる意識を植えつけたが、実際、それは、あっているかどうかわからない意識なのである。(いずれにせよ、人間は、飢えそうになれば、強制的な労働にだって従う。最近は富んできたから、ここらへんの話しがわすれられそうだが、飢え死という責め具を開発しなければ、市場社会は生きていけないのである。だから、飢え死という問題を軽く見てはいけない。このことは当然、労働観にも影響をあたえるだろう。 (労働・ということをかんがえる場合には、常に飢え死ということをかんがえなければならないのである。つまり、このふたつは別々に思考するものではない。労働ということをかんがえるときには、つねに頭のどっかに飢え死ということをおいておかなければならない。)
                                                                                                                                                                                                                                                それに、人間は一日4時間働けばよいというのは、僕の、ごともは一日4時間勉強すればよいということばに対応するから、都合が良いのである。                                                                                                 働くことと社会の活動が分離した社会というのは、そうとうにめずらしい。          僕はそのことをいっているのである。もう、この手の社会は終らせるべきだろう。というよりも、終ってしまうのである。                                                                                                                                             『正式』ということについて考えてみよう。つまり、たとえば、美術の時間に絵を描くのと、自分で好きで絵を描くのとを較べてみよう。これらの行為にはさがない。どちらもえを絵を描いているのだ。しかし、一方は、認められ、もう、一方は、ただのあそびというジャンルにいれられるだろう。これらの分離がおおきすぎたということなのである。つまり、正式だと、何かみになって、不正式だとみにならないという見方が浸透し過ぎている。実際には、好きで描いているほうが、腕前は、あがるのだ。授業にとりいれられれば、まるで、授業にとりいれられなければ、無駄に時間を過ごしている・というのでは、あまりにもさみしすぎる。しかし、今の教育制度を維持していく限り、絶対に、趣味の時間はとりいれられない。構造が違うからだ。ところが、趣味の方が、実質的な重みを持つようになってしまった。これが、学校崩壊の根本的な理由なのである。実は、学問に対しても、絵とまったく同じことがいえる。しかし、これに関しては、話しが脱線しそうなので、ここでは扱わないでおこう。しかし、聡明な人なら、まったく同じだということが、即座にわかるだろう。
                                                                                正式の権威はいかなるところから生じるかというと、それは承認によって生じるのである。承認の権威はいかなるところから生じるかというと、機構から生じるのである。機構から権威が生じるかというと、生じる訳ではない。したがって、機構は、自分で自分の権威をつくらなれけばならないのである。つまり、自分で自分をほめちぎるようなマネをしなければ、機構の権威はすぐにそこをついてしまうのである。機構が自分の機構の権威をつくりだすにはいかようなことをすればよいかというと、
                                        それは、機構ではないものを、さげおとすということをすればよいのである。すなわち、機構と機構以外をつくって、機構以外については、目に見える差別をおこなう。これが、一番の方法なのである。つまり、自分をほめるわけにはいかないから、自分以外のものをさげおとすというこういによって、自分の権威を発生せしめるしかほかに方法がない。自分以外のものをさげおとすには、正式と不正式をつくり、(すなわち、承認と不承認をつくり)承認に権威上の優遇を与え、不承認に関しては、一段も二段も三段も下のものだとする意識を浸透させることがもっとも重要なこととなる。 #こ行なうことがもっとも効果的なのである。そして、その権威は、自然発生的な系つまり、組織や、組織形態から生じるところの権威なのである。                                                   きょういくというのは、こういったそしきのうえになりたっている。これはれきしはっせいてきにみてもそうだし、ただたんにいまげんざいのじょうきょうをみてもそうなのだ。(だから、ここらで、『にんげんきょういくのありかた・ みんしゅしゅぎばんざい ふれあいきょういくばんざい』のかんてん(ひはん)からぬけだしてみたらどうだろうか。なにやらきょういくをほんらいてきにうつくしくてにんげんてきで、ぜんであるといったちょうしの、かんりきょういくにたいするひはんがきかれるのは、ほんとうに、ざんねんなことだ。じんけんをかたるほうがそんなまぬけだから、かんりきょういくやへんさちきょういくといったものがここまですすんでしまったのだ。もうちょっと、じぶんたちのあしもとをみつめて、「かんりきょういくがやなら、かんりきょういかぐやだ」といったほうがよい。ふれるつもりはなかったが、あんまりにも、まぬけなことを、ばかなちょうしでいっているひとをみると、ふれないわけにはいかなくなる。けっこう、ちゅうがくのきょうしにはそういうひとがおおいのではないだろうか。もうちょっとよく、かんがえるべきだなあーー。)
                                                                                                                           ぼくのいいたいことは、ふせいしきなものをみとめるほうで、ふしいしきなものをとりこもうとするほうこうのことではない。たとえば、あかちゃんにおむつをあてるじっしゅうなどがほけんかもくのようにとりこまれるのは、あんまりよいことではないのである。それは、じゅぎょうじかんのかねあわせからいっても、むりだ。じっさいに、いろいろなものをとりこみすぎたから、いまのようなじょうたいになったのだ。だから、これをしゅうへんにあるひこうしきを、せいしきのほうにとりこむというどりょくによってしょうかしようとするのは、むりだ。どりょくのほうこうがまったくぎゃくだ。そうではなくて、せいしきなほうをふせいしきななかになげこむということをしなければならない。それはまったくどりょくのほうこうがちがうのである。どのみち、しゅうへんをとりこむのはあらたなるさべつをうむだけになるだろう。どんなに、やわらかあたましているようにみせかけても。そのようにみせかけなくてはならなくなってきたというじょうきょうは、やっぱり、このきょういくせいどがくずれるぜんちょうではないだろうか。もんぶしょうがわかりのいいことをいいだせば、いいだすほど、「ああ、こりゃ、ほうかいは、あとちょっとだな」とおもっていい。                                                                                                             みきりをけつてよいんじゃないでしょうか                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  三年生の権威はいかなるところから生じるかというと、一年生が恐ろしいほどの失敗をしなければ、三年生が今もっているような権威を三年生になったら、持てるという仕組のもとになりたっている。つまり、かんぜんなねんこうじょれつせいのものになりたっていて、しかも、ぽすとがふんだんにあるというじじつによってきょうこなものになっている。けっきょく、らくだいをしなければ、3ねんせいになれる。なれるというみとうしがひつようなのであって、これだけでもくずれれば、いちにちたりとて、せんぱいこうはいのかんけいはなりたたないのである。つまり、そしきにとってじゅうだいなしっぱいをしなければじょうきゅうせいになれるというみとうしが、がくねんかいきゅうせいをささえているのである。これが、ぽすとぶそくで、けっずっていかなければならないというばあいには、そのようなこうぞうはふきとぶことになっている。ひとあしおさきに、かいしゃのほうではぽすとがよういできなくなって、じつりょくせいがどうにゅうされている。すちゅわーですのせかいでも、いままでのなんきせいというせいどがこわれて、じつりょくをせいかくにはかろうとするどりょくがなされかけている。ともかく、ぼくのいいたいのは、これらのきぎょうにくらべて、がっこうというのは、ぽすとをすきなだけよういできるから、がくねんかいきゅうせいがくずれにくいということと、がくねんかいきゅうせいをなりたたせているのは、じっさいのきこうしすてむではなく、じぶんもそうなれるというげんそうのもとになりたっているということなのである。このしゅうだんてきなげんそうはじっさいのきこうをなりたたせるうえで、じつにじんだいなちからをもっている。すなわち、こじんのこういをけっていするすきーまとなりうる。これは、たいせつなことだからおさえていなければならない。これは、ねんこうじょれつがたのしすてむをささえるにはどうしてもひつようなことなのだ。
ところで、このねんこうじょれつしてすむがくずれかかっているのだから、じっさいのがっこうのしすてむもむいみなものにならざるをえない。これはべつにわるいことではない。ねんこうじょれつがくずれているにもかかわらず、それにたいおうできないというのは、まちがっていることだが、げんしょうとしてみたばあいには、まちがっていることではない。もっと、むじゅんがふきだすべきなのである。あるこうこうせいはそっぽをむくだろう。そういったむじゅんにたいしてたいしょするには、すくなくても、るかれらのもっているたちば

部活などでは、先輩と後輩の区別はしっかりとされている。日本の学校における先輩と後輩というのは、一種特別な力関係によって結ばれているのであるが、このことについて研究することは、日本の学校を理解することに不可欠なこととなる。お決りの描写はやめておこう。そんなものは、日本の中学や高校に通ったことがあるものなら、よく知っているからだ。先輩と後輩の関係がくづれかけて
せんぱいのけんいはいかなるところからしょうじるか・ 

せんぱいのけんいは、がっこうそしきからしょうじるのであるが、がっこうそしきをいじすればせ・けんいがいじされるということではない。                 おきまりのことをやっていれば、ぽすとをうけづぐことができるというじじつがけんいをうみだしているのである。すなわち、                                                                                                                                              ・
資料が、欲しい。欲しい。いたるところで、資料が欲しくなるが、僕の部屋には検索システムがない。図書館も頼りにならない。いったい、どうすればよいのだろう。ともかく、いたるところで、資料を閲覧したくなる。つまり、それは、「・・・だろう」という時、あるいは、ある本を読んで「ーーーだ」と書く時、どうしても、その人の解釈にのらない、それを見ておく必要がある。それにはどうしても、元の本が必要なのだが、僕は学者でもなければ、学生でもないゆえ、それらの資料からは、遠くしりぞけられている。

学士号もないんだからなーー。

実際本当に、学士号もなく、このとしになって、学術的な本を求めているというのは、みじめなはなしだ。ともかく、資料が欲しい。せめて、オンラインシステムでも、導入しなければ。  どうにもならない。


おでーえーはいちどちゅうしして、(そういうことになるだろうが)どうしゅうせいにいこうしたあと、こ・が

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